〘 元祖1式 〙45-51日目 自分=世界
ブログを書かずに、自分に集中してずいぶん経ってしまった。
ここ1週間ほど、私が何をしていたかっていうと。
自分=世界
これをどんどん深めていっていた。
もっともっと分かりたかった。
もっともっとちゃんと体感したかった。
だけど、自分=世界を体感していくと、
今目の前に広がって展開されている現実が、
=自分の思考そのものなんだってことが、
どんどん分かってきてしまって、
そうすると、対面せざるを得なくなってくるんだよね。
私は何でこの現実を創造したのか?
ってことに。
沢山思考停止をして、
なる、と称して理想についても考えて。
そうなんだよね。
思考停止をして、新しい思考を生成したら、
そこから現実に反映されていくんだから、
ほんとのところ、
考える必要もない。
だけど、気になってしまった。
私はこの現実を創造することで、
何をしたかったのかな? ってことが。
私=現実・世界、を知ることで、
見えてきてしまったの。
私が何を考えていたのか、ってこと。
そうしたら、
なんだか無視できなくなってきたの。
こんなに苦しくて、辛い現実を創った「私」という人間。
すべて無視してしまってもいいことなの。
だけど、知ってあげたいと思うようになった。
それで、
現実から自分の思考を観察していたの。ずっと。
私の現実には、
寂しい思い込みが、沢山あったよ。
それが今は必要のない信念だってわかるけど、
その信念を固く握りしめたくなる、傷ついた自分が、
傷つきすぎて守りに入るしかなかった自分が、
いつもいつも泣いてる自分が、そこに居たの。
ノートに沢山書いて書いて、
自分との対話とも言える、自分の心の中を嘘偽りなく書き取って、
そうして眺めてみたりしてた。
そうしたら、本当に悲しい自分がたくさんいたの。
思わず、抱きしめたくなるような自分。
心が痛んで直視できない自分。
繊細で傷つくのがもう怖くて、動けなかった自分。
傷つきたくなくて、誇大に自分を大きく見せようとしている惨めな自分。
ほんと、思わず抱きしめてしまった。
元祖1式だよ。
ほんとに、ただ無視すればいいだけなの。
そんな現実は関係ない。存在もしない。ってね。
そうするのがこの方法でもあるし、正しいとも思う。
だって現実は、将来の願望達成に何の関係もないの。
だけど、無視できなかった。
こんなにも傷ついて凍えてしまいそうな自分の存在を、見つけてしまったから。
愛されたくて、
構われたくて、
誰よりも価値があると認めさせたくて、
自分はここに居てもいいと確信したくて、
自分は必要ないってことを受け入れたくなくて、
頑張って頑張って頑張っていた自分。
そして、そんな自分を、現実に反映させて、
現実の中で、自分の思いを投影させた「他人」を登場させて、
その人を批判したり、嫌ったり、悪口を言ったりしてた。
現実=自分。
自分の思い込みを見せてくれる「他人」がいつも現れてた。
自分の内側の投影とも気づかず、
その人を責めて、なんでこんな嫌な奴ばっかりいるんだ!
って腹をたてて。
それが「=自分」だなんて気づかず。
現実世界は本当に完璧だった。
その、引っ掛かる人物に何を思ったかを、
全部ノートに書き出して眺めてみた。
そうしたら、
自分が自分に対してここが嫌い、と思っていて、
これが自分だなんて到底受け入れられない!
って拒否してた部分が、
そっくりそのまま、他人に投影されて出現していた。
そうやって丁寧に現実を見ていくと、
他人=自分だったと、認めざるを得なかった。
そうならば、
今私が体験している現実全てが、
緻密に、どこをとっても全てが、
「私」を表現している。
受け入れがたい人物も出来事も、全部が自分だった。
そっくりそのまま、1ミリのずれもなく、「私」だった。
ずる賢いあいつも、
気に入られたいとすり寄るあいつも、
ケチなあいつも、
人を都合よく扱うあいつも、
すぐにイライラするあいつも、
不機嫌な嫌な雰囲気で人を支配しようとするあいつも、
空気読めないあいつも、
クレーマーみたいに文句ばかり言うあいつも、
人の気持ちを逆手に取って適当にあつかう酷いあいつも、
人の手柄を横取りして人に認められようとするあいつも、
ほんとは中身空っぽのくせに中身いっぱい詰まってるように見せかけるあいつも、
人に褒められたすぎて自慢話ばかり繰り返すあいつも、
責任を負いたくなくて人に決断を委ねるあいつも、
不幸なのは〇〇のせいだ!と全部人のせいにして頑張らないあいつも、
モテたくて必死なあいつも、
良い女ぶってるあいつも、
人にマウント取りたがるあいつも、
全部全部全部全部全部、「私」だった。
そう認めるのがつらかった。
だけど、認めるしかなかった。
そして、そうしてしまう背景には、
自分に対する不信感だったり、
無力感だったり、
無価値観だったり。
認めてしまったら自分が壊れてしまいそうな、
不快で恐い感情がたくさんつまってた。
この無力で無価値な自分がバレないように、って、
いつもいつも虚勢張って頑張ってた自分を、
もう認めてあげようと思った。
『あぁ、そう思っていたんだね』
『あぁ、辛かったね』
『自分は必要のない人間だって思ってたね』
『ここに生きていていいって、誰かに言ってほしかったね』
『ここに生きていてもいいように、価値がある振りを頑張っていたね』
『よく頑張ったね』
『本当に辛かったね』
『だけどもう、頑張らなくていいよ。そんな自分のままで、もういいよ』
あなたには価値があるよ!
あなたは必要だよ!
あなたのこと愛しているよ!
・・・だなんて、軽々しい言葉なんて掛けられなかった。
ただただ、共感して、お疲れ様、もうそのままでいいよ。
よくなろうとして頑張るのやめても、もういいよ。
そう言ってやることしかできなかった。
だけどね。
ただ情けない自分を認めて、共感して、一緒に泣いてあげるだけだったけど、
私の本当の心が、「ホッ」と息をついて、
なんでかわからないけど、
心の中心から、じわーっと何か温かいものが広がった、気がした。
私はもう頑張れない。
私は良い人間にもなれない。
だけど、ただひとり私だけは、
私の頑張りを認めて、許してあげたいと思うんです。
どんな嫌なやつでもいいの。
頑張って頑張って空回りしてた自分を
一旦ストップさせてあげて、
隣に座って、ネガティブでもなんでも、聞いてあげたい。
今までどんなに頑張って来たか、
一緒に涙を流しながら聞いてあげたい。寄り添っていてあげたい。
もう頑張れない。それでもいい。
私は、こんな情けない自分を認めたくなかった。
だから無視し続けていたんだ、ってことがよくわかった。
そして、自分に無視され続けるってことが、
自分にとってこんなにも負担で苦しいんだってことが、よくわかった。
もう、悲しませたくない、と思った。
元祖1式はできてなかった。
だけど、本当の自分と初めて出会えた気がしました。
私は自分の好きになれる部分だけをかき集めて、
なんとなく愛せる気がしてた。
だけど、情けない自分の部分を切り離して捨て置いて、
それを無視している状態では、
その「愛せそうな自分」は完璧な自分ではなかった。
私の望みは、自分の丸のまま全部を愛してもらうこと。
でも分かった。
私は私を、丸のまま全部、愛せてなかった。
好きになれない部分の自分を、切り捨ててた。
それでは不完全で本当の自分ではないんだね。
今はそんなことどうでもいいけど、
私=現実、だったら、
私が丸のまま全部の自分を愛さないなら、
世界の方からも、丸のまま全部は愛してもらえないんだね。
心の底から全てを愛してもらえる現実も発生しないんだ、って、
よーく分かった。
今はまだ、まだ発見できてない自分が、
どこか片隅でまだ泣いているような気がしてる。
だからしばらく、もっと現実を介して覗いてみようと思う。
あぁ、これって、つまりは自愛、だね。