〘 元祖1式 〙185-197日目 現実は無視
今日はびっくりしたことがあった。
私の願望がもうひとつ、叶った。
車が手に入ることになった。
思っても見ないところから。
私の欲しかった車種ではなかったけど、
願望の通り
『初期費用無し。車体もタダで、車をくれ』
これがなんと、達成された。
車がもらえた。
しかも、思ってもみなかったプラスアルファは、
ランニングコストも全部、相手が負担してくれることになったこと。
なんだか、ただただあっけに取られています。
だって、確かに『あ~、車欲しい。誰か車買ってくれないかな?』
って、ちょっと前につぶやいていたから。
だからってくれる相手も当然いないから、
まぁ、欲しいけど、いいか。
って放っておいたことだったから。
こんなルートで車がくるなんて、本当に思っていなかった。
思い返せば、
ずっと欲しいとは思っていた。
欲しいものは?
って聞かれたら、「車」って答えてたかもしれないくらい、
ちゃんとほしかった。
だけど、
どこからどのルートで・・・とかは考えてなかった。
車くれたらいいのになー!
この程度。
欲しいけど、執着していなかったと思う。
いずれ手に入る!
と確信もしてなかった。
これがいわゆる ” 手放し ” ってやつだったのかな?
でも、そう。
そんなこんなもゴチャゴチャ考えてなかったら、来た。
最近は、自分の認識について考えていた。
考えていて、考えなくなってきてた。
どういうことを考えていたかって、
私の身に降りかかる、
『いやだな』って出来事。
これはなんだろう・・・って。
認識の変更って、なんだろう・・・って、改めて。
結論としては、
認識の変更は、全てが「ある」と認識することでもあり、
全ての認識が「ない」と認識することなのかもってことだった。
眠っていると、認識ができなくなる。
何に対しても、苦しさも喜びも感じない。
というか、何が起きてても何も認識できてない。
眠っている間に雨が降っていても、
眠っている間はそれを認識できない。
確認できない。
あるかどうかも、考えない。
もちろん、ない!と騒ぐこともできない。
そうして目が覚めると、
地面が濡れてて、もしくは雨が降っていて、
『雨が降ってる』と認識する。
目が覚める。
『今日も嫌な一日が始まる』
『憂鬱だなぁ。また仕事に行かなきゃいけない』
ほんのさっきまで、
何も知らないし、認識することもしてなかったのに、
目が覚めた瞬間に、
なんらかの認識が始まっている。
目が覚めるまでは、なんにもなかったのに。
目が覚めた瞬間から、「ある」世界が始まっている。
そうして、ビックリしたの。
認識していないときは、なかったもの。
認識し始めたら、そこに「あった」の。
それが自分にとって「いいもの」「悪いもの」どちらにしても、
自分がそれを認識した瞬間に、「ある」んだよね。
いいものも、悪いものも、「ある」んだよね。
で、本当の「ない」ってなんだろうと思ったの。
認識がないときには、全て「ない」
認識があるときには、全て「ある」の。
上手く表現できないけど、
本当の意味での「ない」は存在しないんじゃないか、って話。
で、自分が目覚めて認識できた瞬間に、
目の前に「ある」「ある」「ある」が広がっていく。
欲しかった◯◯も。
絶対にいらない◯◯も。
平等に、「ある」。
じゃあ、ただそこに「ある」だけのものに、
「良い」だの「悪い」だのつけてるのは誰? ってことだよ。
それって、 ” 自分 ” なんじゃないのか、ってこと。
本当は、ただ「ある」のに、
自分のものじゃないから「悪い」
自分のもの、もしくは自分に好意的(に感じる)だから「良い」
そうやってレッテルを貼っていく。
まず「ある」。そこにそれが「良い」の「悪い」のってジャッジをつける。
その「ある」の認識の後につく、レッテルって一体なんなの?
って思ったの。
ただただ目が覚めました。
そこに世界が広がっていました。
・・・以上。
これが本来の認識なんじゃないかな、と思った。
それ以降のことは、全部エゴ(自我)がジャッジしてつけた評価であって、
それは認識とは言わないのじゃないかな。
しかもその評価、それ本当?
良いように、思ってるその評価。
悪いように思っている、その評価。
それ、本当?
誰が見ても誰が聞いても、本当?
その寂しいのって、あなただけがそう思ってるんじゃない?
その惨めさって、あなただけがそう思っているんじゃない?
他人のどの人が聞いても、体験しても、同じだなんて、言い切れる?
私は言い切れないと思う。
私の評価は、私だけのものであって、
多分、他の誰とも同じなんてありえない。
だとしたら、その評価、絶対的なものとして通用するのは、
自分の中でだけだよね。
別に他人からみてどうかを気にしなさい、って話じゃないよ。
世界の存在しているものたちは、
ホントはなんの評価も持っていなくて、
ただ、そこに「ある」だけ。
存在するだけ。
それだけ。
それが、それ以上でも以下でもなくて、
そこにあります。以上。
・・・みたいなことであって、
そこに意味をもたせたり、
そこに何の意味ももたせなかったり、
そうしているのって、” 自分 ” なんじゃないの? ってこと。
私は何に苦しんでいたんだろうね。
現象はただ、そこに「ある」だけなんだろうに、
それが苦しみの種だったり、喜びの種だったりするの。
全部、自分がそう演出しているだけだよね。
だとしたらさ、
そこに「ある」だけのことに、
苦しい評価をつける必要がどこにあるんだろう。
私は元々、めちゃくちゃ自由を許されてたんじゃないの?
私が「ある」以降に下しているジャッジは、
その ” 認識 ” チックなそれは、
全部幻なんじゃないの?
本当は全部「あって」、
本当はすべて自動的に上手くいっている、もしくは存在していて、
私の下しているジャッジはただのエゴ目線の幻なんじゃないの。
って、思った。
同じ幻ならさ、
私の世界は大笑いでミラクルが起きる世界だ、と認定しても構わない。
起きている現実が、エゴ目線で「最悪」でも、
「最高に楽しくて、今上手くいきまくっているところ!」と認定しても、構わない。
別に認識なんてどう持っててもいいのかもしれないの。
だったら、「最高だ」と認定してしまおう。
そう思った。
目が覚めた瞬間から、最高な世界が認識されてる。
「ある」は、世界を見られている時点で確実に「ある」から、
その「ある」世界に対する評価を、最高と決めてしまう。
もうそれでいいじゃん。
目が覚めた瞬間から、自分にしか見えない世界が広がっている。
それを最高だと決めたところで、なんも不幸にならないじゃん。
「そんなことない!最高なはずない!だってこんなに不幸だもん!」
ってエゴが騒ぐのかもしれないけど、
それすら別にいいやん。
だって「ある」は確定してしまってる。
目の前に世界が広がっているなら、それだけは間違いない事実。
(生きている限り、必ず目の前に世界は現れているはず。例外はいないよね)
目が覚めて、すべて自分の認識がはじまる。
目の前に「ない」ものはないから、「ある」しかない。
ないものは存在しない。
全て私の世界の中に「ある」から、欲しいと思う。
私の頭の中=現実。
だから、欲しいと思った瞬間に、ある。
あるから安心していいねん。
目の前に世界が広がっているなら、
頭の中(自分の内側)はちゃんと現実化している。
好ましいものも、好ましくないものも、
平等に存在してる。
存在していることは平等。
要するに、というか、元々全部あるの。
ある世界しかないの。
ジャッジは全部ウソ。
気にしなくていい。
気になっても、幻だからどうしようもない。
気にする必要ないし、気になるものがあっても、別にいい。
ジャッジが無駄で幻で嘘だ、ってことをわかっていたら、
世界で傷ついても、苦しんでても、全然構わない。
自分がどんなジャッジをして、どんなに苦しんでいても、
願望は叶うよ。
だって、もう叶っているもん。
目が覚めた瞬間、もう叶っているを体験している。
それに気が付かないだけ。
納得がいかないだけ。
良いも悪いも、全部包括して存在している世界。
これが全部全部、願望実現している世界なんだよ。
全部叶っているよ。
だけど、ジャッジして一部だけしか受け取らないから、
わけが分からなくなっていく。
全部、大成功だよ。
全部、実現しているよ。
結局は、全部叶っているのに、認めていないだけ。
そして、全部叶っている世界の中で、
どれをチョイスして楽しむか、味わうか、慈しむか。
ほんとそれだけなんだな、と思う。
そんなこんなで、
私はもう既に実現しまくっている世界の中で、
自分が「好き」と思うものを楽しむようにしている。
自分が「嫌い」と思うものは、存在を消そうと躍起になるんじゃなく、
別にそっとして放っておく。
そして、「好き」「楽しい!」と思うものだけ思いっきり味わってる。
それだけ。
今までは、「嫌い」なものをこの世界からなくそう、なくそうと必死になってたの。
だから苦しかった。
だって、もう「ある」ものを消すなんて無理だから。
だから、消そうとせずに、無視して、
世界に存在するものの中から、「好き」だけを喜んで感謝して楽しんでる。
そして、世界にはそんなものがたくさんある、と信じている。
ただ、最近はそれだけ。
現実は無視。
潜在意識のなかの基本。
これって、全部願望実現しているなかから、「喜び」だけを選択していく、
そういうことなんだな、と思った今日このごろでした。