〘 元祖1式 〙177-184日目 絶望と希望
絶望ってなんでこんなに深いんだろうね。
絶望するとき、なんでこんなに深くえぐられるんだろうね。
絶望って、なんでやってくるんだろう。
やっぱり「期待」するときなんだろうか。
「期待」しちゃうよね。
絶望しているときって、
実は自分が知っている絶望の状態じゃないのかもしれないな。
絶望が湧いてきているときって、
思っていたのと違ったとき。
思っているようにならないとき。
誰かに傷つけられたと思ったとき。
何をしても無駄だと思うとき。
よーく、よーく、観察してみたら、
そこにはちゃんと「期待」が、あるんだね。
「期待」しているものがあるから、思ってたのと違うと思う。
「期待」しているものがあるから、思うようにかないと思う。
「期待」しているものがあるから、誰かの違った反応に傷つく。
「期待」しているものがあるから、そこにたどり着けなくてもうだめだと思う。
「期待」が悪いという話がしたいんじゃない。
人間って、やっぱり「期待」という名の、希望的ストーリーを、潜在的にもっているんだなぁ、って思って。
そう。
希望があるから裏切られ、傷つけられ、その幸せと比較して絶望する。
だから、希望を持つのが悪い・・・じゃないの。
なんかすごいよなぁ、って思って。
だってさ、どんなに「絶望してるんだ私は!」って人の中にも、
燦然と輝く希望があるんだってことだよ。
これって、すごくない?
よく考えてみると、
この希望ってなんなの?
すごいよ、これ。
誰の中にも、誰かに命令されたわけでも義務でもないのに、
自然に希望ってものがあるってことだよ。
潜在的に、誰ももれなく希望をもってるってことだよ。
誰が教えてくれたの?
誰が希望の持ち方を教えてくれたの?
なんか不思議でしょうがないんだけど。
いや、わかるんですよ。
この希望とやらがあるから、絶望に追い込まれるんだー!!ってこと。
だけど、
私が思ったのはね、
誰の中にも、美しい希望のある光景が、存在しているってことなの。
それが、すごいよね、って話。
潜在意識界隈で言われる絶対的法則。
自分の内側=現実
ね。
これは本当なの。
それは最近私が思う、本当に本当だ!って事実で。
でもみんな「既にある世界」がみえないって言う。
認識を変えるのは難しいって言う。
だけど、思ったの。
絶望を感じられるってことは、
希望が自分の中にちゃんと存在しているってことで。
だって比較対象がなければ、絶望しようがないから。
だから、絶望してる=希望をもってる、ってイコールです。
でね、
絶望の方をちょっと置いといてみたら、
とにかく、事実として、
自分の中にちゃんと「希望」が存在しているってこと。
で、潜在意識の法則。
自分の内側=現実
これです。
希望があるのだから、
放っておいたら希望=現実、のはずなの。
これがいわゆる、「既にある世界」だよ。
じゃあ絶望の方は何? どうすりゃいいの?
・・・ってことだけど、
結論は、「どーもしなくていい」ってことになるんだ。
今まで書いたことで、気づいた人もいるんじゃないかと思うんだけど、
絶望はみんなのなかに真実みたいに迫ってきて、
振り払っても振り払っても、消えない暗黒のように信じているけど、
というか、この絶望の方が本物って思っているかもしれないけど、
違うでしょ? ・・・ってことなの。
そもそも順番が違う。
「希望」があるから、それと比較して「絶望」を感じられる。
ってことは、
「希望」が先で「絶望」が後ってことだよ。
後から生まれるのが「絶望」なの。
「希望」を持つから「絶望」するんだ!
「希望」を持たなきゃ苦しくないんだ!
って言う人もいるけど、
だけど違うよね。
消せるのはどっち?
って考えたらさ、
消せるのは「絶望」の方でしょう?
だって「希望」は勝手に湧いてくるもので、もう潜在的に持っているんだもん。
消せようがないでしょう?
だけど、「絶望」の方はさ、
「希望」を比較対象にして、後から発生させたものなんだから、消すことも可能でしょう?
何が言いたいんだって、
私達は元々、希望を潜在的に持っていて、放っておけば勝手にキラキラ輝いている存在だってことです。
希望は、消せないってことです。
放っておいたら、自分の内側=現実の法則の通り、
勝手にキラキラ輝いた世界に住めるはずだ、ってことです。
絶望って、本当に辛いよね。
このブログを始めた当初の私は、
絶望の淵にいて、
「もう消えたい」「頑張れない」って思いつめてた。
だから、絶望の苦しさは本当によくわかる。
でも、今、それから少し離れられるようにはなって、
思うのが、
絶望って、存在しないんです。
ってことだ。
絶望を感じていて、苦しい渦中にいるときには、信じられなかった。
この絶望は自動的に湧いてきて、自分の意志では止められないんだ、って信じてた。
とういか、体感的に本当にそう思ってた。
だけど、違ったの。
この絶望、
考えないようにしたり、
忘れてみたり、
嘘だと信じてみたり、
他のもので気をそらせて離れてみたり、
別の何かを本気で信じてみたり、
そうすると、消えるの。
そう。
この「絶望」は、無視しても、何も問題が起きない。
ってことを知った。
今の私は、ただそれだけだ。
「絶望」に取り組まない。
別にそれを塗り替えるための「希望」のことを四六時中考えてなくたっていい。
ただただ、「絶望」から離れる。
たったこれだけ。
でも、最初はさっき言った通り、
この「絶望」は自動的で自分の意思では止められない、、
って本気で本気で信じているから
「無理だよ!」って思うかも知れない。
だけど、断言する。
この「絶望」ね、
忘れられるよ。
消すことができるよ。
自分で止めることができる。
それもちゃんと自分の意思で。
苦しいのもわかる。
無理だ・・・って再び絶望に飲まれるかもしれない。
何回飲まれてもいいんだ。
ただやれることは、
自分の意思で、この「絶望」を捨てること。
「いつか絶望が去ってくれるかも」って思っても、
絶望は去ってくれない。
自分の意思で動いた時にだけ、
絶望と縁を切ることができる。
踏ん張るのはここだけ。
「絶望」と縁が薄くなってきたら、
なんで今まで「絶望」が本物だと思ってたんだろ、って気づく時が来る。
「絶望」は嘘だよ。
自動的に発生させているのは、自分。
だから、自分でしか止められない。
勝手に止まってくれる「いつか」は存在しない。
その反面、
「希望」は止められない。
「希望」は自動的に発生してる。
これが神の領域なのかどうかはわからない。
だけど、「希望」だけはどうあがいても捨てることができないようになってる。
だから、「希望」の方は安心して放っておいて、
頑張るのは「絶望」と縁を切る努力をすることだけ。
「絶望」は嘘。
「絶望」は幻。
「絶望」は存在しない。
自分がその存在を許可したときにだけ、存在できる。
「絶望」にまみれている時に、辛い話なのかもしれない。
だけど、「絶望」は捨てられる。これは絶対。
「絶望」を信じている度合いが深いほど、
信じられないし、苦しく感じるかも知れない。
だけど、勇気を持って「絶望」を捨ててみてね。
「絶望」を捨てるとき、
意外と不安を感じるかもよ。
「絶望」について取り組まないことに、恐怖を感じるかもよ。
そうしたら気付ける。
「絶望」を抱えていたかったのは、
「絶望」でいることに安心していたのは、
自分の意思だったってことに。
今日は、大事なお友達が落ち込んでいたことについて思いを巡らせていたら、
こんな「絶望」と「希望」の話が降ってきました。
本当に、みんなが幸せになればいいと思う。
いや、誰の中にも「希望」があるから、
それが自動的に世界に反映されるようになってほしい。
でもそれには、=現実を邪魔している、
「絶望」と手を切らなきゃいけないね。自分の意思で!