〘 元祖1式 〙274-282日目 私は創造主で、完璧だった
なんだろう。
ものすごく、穏やかな日々を過ごしています。
現実って、本当に「私の内側」を忠実に再現しているな、と。
現実は本当に、私が創っているな、と。
鬱になったものの、対処が早かったので、すでに復活しております。
鬱っていうか、抑鬱だったんだね! よかった!
でも、現実を自分が創っている・・・ということが心底腑に落ちてから、
世界に対する感じ方が、明らかに変わりました。
これも認識の変更の段階が進んだおかげかしら。
現実は本当に、自分の思い通りに創られていたよ。
ほんとうに、忠実に。
私の内側と現実は完璧に一致している。
私が信じていることが現実に忠実に反映されている。
現実の始まりは、私の内側からだった。
こんなに精巧に、広大に創られている現実を見たら、
こんな壮大なものを、自分が創っただなんて信じられない思いがする。
だけど、この世界は確実に、自分の手によって創られてた。
それが、今の私の気づき。
そして、体感だ。
世界を自分が(ほんの一部でなく)100%全部創っている、と分かると、
当然、「全てある」となる。
だって、いつだってこの世界の始まりは自分。
だったら、その材料すら、全部自分の手中にあるのが当然でしょう?
この世界を創り出す感覚が、分かるようになった。
私は何でも創り出せる。
私はそのための材料を、何でも持っている。
職場を辞める話がスルスルと進んで、
なんと有休消化とその他を含めて、
20日間も働かずしてお給料をもらえることになって、驚いている。
ちなみに私は、そんなに長く今の職場では働いていないので、
有休以上に休めることに驚きです。ありがたい。
世界を自分が創っていることを体感してから、
ただ自分の思考を眺めている日々が続いている。
たとえば、現実の中で自分に不都合なことが起こっているとき、
それを創っている観念が必ず自分の中にある、と分かっている。
だから、「あぁ、私はこんなことを信じているのだな」と知る。
「あぁ、私はこんな不都合なことが起こることを望んでいるのだな」と知る。
自分の内側にどのような観念があるのか、
どんなに探っても、真相まではたどり着けない。
だけど、世界を眺めていたら、その観念が至るところから見つかる。
不都合な現実に怒り狂ったり、怯えおののくのではなく、
ただ、自分のある観念がその現実を創っているのだと、知るだけ。
自分の知らなかった観念が、簡単に見つかる。
そうしたら、ただ「はぁ、そうか」と思う。それだけ。
そうやって客観的に眺めていたら、
そのいらない観念が出来上がる、前の段階に行けるようになった。
たとえば、
「私は人に下に見られて、イジメられる」っていう観念。
これも、私の世界ではものすごく忠実に再現されてた。
そう、これ、私が創ったの。
だったら、この観念を創る前段階に戻ればいいだけなんだよね。
なーんもない。「イジメられる」っていう観念のない状態。
私が創ったんだから、創らないことも簡単だ。
そう。簡単なことだったことに、気がついたの。
現実に反映される移行期では、
まだ現実に「イジメられる」が少し残ってる。
だけど、「私はそれ、創るのやめたんだった」と何度も思い直していたら、
やがて現実から「それ」が消えた。
要するに、職場での個人攻撃というイジメが、止んだの。
その時の私の心境はというと、
歓喜するでもなく、
ただ「やっぱり私が創ってた。やっぱりなんだな」、と思っただけだった。
既に知っていた事実を、確認したかんじ。
ま、もう職場を辞めることが決まってるし、
今更どーでもいいんだ。
(ちなみに、私をイジメていた人はまだ私が退職することを知りません。)
ただ、もう今後、私はイジメられることがないんだな、と確信している。
最近、ハマっていること。
達人さんに「紙」さんという方がいる。
その方が、「神の完璧を見る」という内容を書き込んでいらっしゃったの。
それで私、なるほど、と思って。
全部自分が創っている。
これは真実だった、と納得している。
私は全部、何でも創れる、と知っている。
でも、何を創りたいのか、さっぱり思いつかない。
私がこの世界をいちから創ったんだとして、
都合の良いことも、都合の悪いことも、創っていたんだと知って。
ただそれを眺めている日々を過ごしていて、
世界に無駄はなく、不都合なことも本当の意味では存在しないことを理解した。
で、これからどうなりたいの?
っていう問題よ。
このブログを始めた当初、復縁を願ってた。
それも叶って、
今の段階に来て、
全てが完璧なんだと知って、
全て手に入れられるとして、
私は何を喜ぶんだろう。
って、真剣に考えちゃったのね。
要は、現在の全てに満足していて、
強く願うことができなくなった。
そこで「紙」さんの言う通り、
私も「神の完璧を見る」ことにしたの。
私の願望は、私の薄汚れた観念にまみれていて、
それが最高の願望なのかどうかが、分からないの。
だから、全自動で神が完璧に仕上げてくれる、
その世界をただ堪能してみようと思った。
よくいう「完璧」メソッドみたいだね。
だけど、土台が以前とは違うの。
自分は完璧に世界の創造に関わることができる、と分かっている立場。
この立場からだと、
神に丸投げ。もとい、潜在意識に願望丸投げ。
これがいとも容易い。
なぜかって、
自分がもうすでに完璧であることを知っているから。
だから、現実が不都合でエゴが大騒ぎしていても、
「あぁ、私の中にこんな観念があるのね」とか
「あぁ、私はこんな出来事に、こんな風に感情が動くように設定しているのね」と、
ただ俯瞰していられるから。
エゴと一緒に踊ることができなくなった。
だって、その観念の生まれる前に、戻ればいいだけだからね。
だから、神の完璧に程遠いような出来事が起こっても、
それに大騒ぎするエゴを簡単に無視できるし、
その出来事すら神の完璧への道中である、と納得できるから。
私は今、こんなかんじでゆるゆる過ごしています。
新しい職場は、向こうから都合よくオファーが来たから、乗ってみることにした。
条件は今よりかなり良い。
でも深く考えたりすると、エゴがいらない計算や未来の心配をしてうるさいから、
なーんも考えてない。
考えているとしたら、
「私は神の完璧を見る」
これだけ。
この決意だけ。
これから目をそらさない、それだけ。
前はエゴと戦って必死だったのになぁ。
今は戦う気にもなれない。
「はぁ、そうですか」って受け入れちゃう。
受け入れるけど、従わない。
そこにいることを、許しているだけ。
迎合しないし、正直エゴの言うことなんて嘘ばっかりで、どーでもいい。
なんか、とりとめもない話になってしまった。
だけど、これも貴重な記録。
このゆるさで進みたい。
そういえば、
エゴと戦わずに、なるように任せて、
創造主としての私の完璧さに浸っていたら、
運動しなくても、食べてても、勝手に痩せて理想体重に近づいてきた。
これも、私の願望のひとつだったから、
やっぱりエゴと戦わず、いらない観念を創らなかったら、
願いは叶っていくんだなぁ、と体験したよ。
このまま年末まで、「神の完璧」をどんどん見ていこうと思います。