潜在意識 〘 元祖1式 〙 人生反転実験してます

潜在意識〘元祖1式〙で、人生反転できるか実験してます。

〘 元祖1式 〙108-114日目 悪い妄想をするのは、もはやライフワーク

 

この一週間はなんだか自分的に盛沢山だった。

 

仕事場の彼女のことを、実は悩んでいた。

 

で、自己解消できるように自愛したり、ブレインダンプしたり。

 

もしくは元祖1式、で考えないようにしたり。

 

 

 

だけど、どれもしっくりこなくて、

 

なんか違うくて、

 

なんだろなーとずっとモヤモヤしていた。

 

 

 

で、今週はじめに閃いた!

 

あ、そうか、転職しよう! って。

 

 

 

ということで、

 

職場探しと、ついでに今週末に面接もサクッと終わらせて、

 

「ほんとにこれ一週間でやったの?」

 

っていう充実した1週間を過ごし終えた。

 

(私、経歴が多いので、履歴書と職務経歴書を書くのが手間だったよ~)

 

 

 

その合間に、

 

恋人さんのお誕生日もあった。

 

先週、続けて2ヶ所への遠方出張をこなしていたので、

 

今週はお誘いしても、疲れてるだろうし無理かな、と思って。

 

とくにこちらからアポイントは取ってなかった。

 

 

 

そしたら恋人さんの方から

 

「明日、一緒に食事できる?」と連絡があり、

 

無事にお誕生日を祝うことができたよ。

 

 

 

なんだか最近、会っているときも、会ってないときも、

 

ものすごく大事に大事にされてる。

 

会っているときは、ずっとよしよしされてる。

 

会っていないときは、連絡がたくさんくる。

 

他愛もない、日報みたいな。

 

「○○に居るよ」「○○食べたよ」「ジョギングしてきたよ」などなど。

 

毎日のやりとりが積み重なってきている。

 

 

 

で、今日の本題なんですが。

 

なんで人間って、不幸な妄想するのが好きなんだろうねぇ、ってこと。

 

 

 

お誕生日にプレゼントを用意していた。

 

超お金持ちの彼に、何あげたらいいのか、本気で分からなかった。

 

だって、素敵なものをもらい慣れてる相手だもんね。

 

どうしたらいいのか、マジでわからない。

 

で、一周回って落ち着いた。

 

『彼の本当に欲しいものなんて、私には買ってあげられない。だったらもう、私が彼に持たせたいものをあげよう』

 

で、私がものすごく気に入った可愛い飾り物をあげました。

 

これが社長のデスクに飾ってあったら、私なら逆に萌える♡♡♡

 

っていうもの。

 

 

 

その時はドキドキ。

 

だって、「こんなもの」って思われそう!

 

って、怯えおののいていたからね。

 

そしたら彼は機嫌よく受け取ってくれただけでなく、

 

次の日に写メ付きの連絡が来た。

 

「会社のデスクに飾ったよ~♡ ありがと~♡」って。

 

 

 

彼の本心はともかく、

 

私の頭の中では壮大な妄想ストーリーが繰り広げられていた、

 

と、後から気づいた。

 

 

 

プレゼントする → 引かれる → 嫌われる → 別れる

 

 

 

後から思い返して、

 

私何やってるんだろ、と思った。

 

これって、ありもしない未来を勝手に悪い風に創造したってことだし、

 

実際は優しくて好意的な彼を、そんなことで引くような冷たい人に仕立て上げてるってことだし、

 

はたまた、私はこんな小さいことで受け入れてもらえなくなる、愛されない私、を信じてたってことだ。

 

 

 

今回は結果的に、上手くいっているけど、

 

ちょっと恐いな、と思った。

 

 

 

潜在意識上で私は、

 

自分の内側で私は、

 

また知らない間に、最悪のストーリーを創造していた。

 

しかも、知らない間に! そう、無意識に!

 

 

 

これに気づいてから、

 

意識的に注意していることがある。

 

転職活動についても、同じように最悪のストーリーを創造しそうになっていることに気づいたから。

 

「未経験の分野に飛び込むには、年齢的に無理がある」とか、

 

「私は絶対落ちる!」とか、

 

「結局今の職場にいるしかないんだ」とか。

 

 

 

ね。

 

なんで上手くいかない想像ばっかりするんだろうね。

 

自分の実力とかはさておき、

 

どうして、どうとでも自由になる想像のフィールドですら、

 

自分をいじめるような方向に進んでいくんだろう。

 

 

 

で、なんか腑に落ちた。

 

人は自分が傷つかないように、傷つかないように、

 

事前に最悪の想像をして精神のセーフティネットを掛けておくんだな。

 

失敗しても、想定内ならダメージが最小ですむもんね。

 

 

 

自分にとってこうあってほしい!ってことを

 

ごり押しで想像して突き進むのが「なる」だよね。

 

潜在意識のセオリーからいくと、

 

「なる」はいいよね。

 

こんな無意識に最悪ストーリーで悪いものを創造するよりは、ずっといい。

 

 

 

でも「なる」は難しい。

 

なぜ?

 

自分を信用できないからだよね。

 

 

 

こうなったらいいな。

 

これくらいなら容易に想像できる。

 

でも、自分がそうなる!って意味に想像するには、抵抗が湧く。

 

自分に自信がないからだよね。

 

そして、そうやって自信満々に「なって」、

 

もしそうならなかったら、カッコ悪すぎるもんね。

 

 

 

「○○になる自分」に許可を出すべきだけど、

 

それより大事なのは、

 

「○○になれなかった自分」を許すことかなぁと思った。

 

 

 

いや、「なる」したら、「なる」しかなくなるんだけど、

 

「なる」って宣言して、

 

「ならなかった」ときの自分の影に、

 

その最悪の可能性に、ずっと怯えながら、

 

「なる」をしてても、

 

それは意味がないんだな、と思ったの。

 

 

 

どんな自分でもオールOK!

 

っていう懐深さがあれば、

 

「なる」をしている自分のことを、

 

何か恐~い「なれなかった自分」っていう影から守りながら、

 

必死でそれを避けながら「なる」する必要もないもんね。

 

 

 

ダメだったとしても、自分は大丈夫。

 

そのくらいで自分のこと嫌いになったりしないもんね!

 

って、懐深く自分を包んであげられていたら、

 

ただただ、純粋に「なる」自分でいられる。

 

 

 

元祖1式はそんなこと何も考えずに全部止める。

 

不安も喜びもなんもかんも、止める。

 

それがずっとできるように、頑張る。

 

元祖1式をするのが、一番効率がいいよ。

 

 

 

だけど、その思考停止・・・の中身を分解すると、

 

こんな感じでいろんな理由が渦巻いてるのかな、と思った。

 

 

 

現実や内面が良い風に進んでいても、

 

最悪ストーリーを仕立て上げるのは、人間の性なんだな、と

 

改めて実感したのでした。

 

だから、元祖1式をするのなら、

 

悪い思考は本能的にずっと湧いてくるから、

 

ある意味ずっとやり続ける必要がある。

 

(そのうち、悪い思考が劇的に減っては来るけどね!)

 

 

 

転職も恋愛も人生も、

 

どう転ぶか全然分からない。

 

なんか最近は、何が起きれば自分が満足するのかも、よく分からない。

 

 

 

ただ、自分が苦しくないように。

 

ただ、幸せな自分・・・でいたら閃くことを、

 

ただ淡々とこなしているような日々。

 

転職だって、必死じゃないから、

 

ある意味どうなってもどーでもいいんだ。

 

ただ、期日までに必要書類を提出して、失礼のない文面を用意して・・・

 

って、必要最小限のことはするけど、

 

それ以上の努力もなーんもしてない。

 

縁があれば進むだろうし、

 

縁がなければ終わる、ただそれだけかと思う。

 

 

 

じゃあなんで転職活動したのかな?

 

わからない。

 

そう考えると、

 

ずっと耐えてなくていいんだ。

 

転職するって手もあるんだなぁ。

 

・・・と思わせてくれたって意味では、

 

嫌味な彼女が私の世界に存在した意義はあるのかも。

 

と思っている今日この頃。

 

 

 

最近は、

 

起こる出来事は何か全てと繋がっているような気がしてならない。

 

それは「最悪なこと」ではなく、

 

「なにか今は分からないけど、私にとって最良なこと」と。

 

 

 

何だか分からないけど、

 

それだけは確信していて、

 

やっぱりふんわりした安心感の中に、毎日を暮らしている。

 

 

 

 

〘 元祖1式 〙101-107日目 螺旋階段を上昇中

 

どうしよう。

 

願望がなくなっていく。

 

なんでかわからないけど、

 

どんどん執着が消えて行っている。

 

 

 

銭ゲバ

 

愛情に飢えてて

 

コミュ障で

 

自分のことが嫌いで

 

 

 

そんな今まで当たり前だった自分の何かが、

 

静かに、静かに、小さくなっていく。

 

 

 

感情の起伏は、日に日に平坦になっていって。

 

嫌な思考に巻き込まれることが、本当にない。

 

 

 

「平坦」というと、味気ない感じがするかもしれないけど。

 

今までの私は感情の起伏がエベレストより高くて、

 

乱降下は深海より深かったので、

 

その振れ幅が小さくなった、ということであって、

 

嬉しいことも、なんとなく嫌だなぁ、ってことも、ちゃんと感じている。

 

 

 

でもなんかね。

 

どう表現していいのかわからないんだけど、

 

「自分最高!」って盛り上がる気分も減って、

 

「自分はダメだ!」なんてへこむこともなくて、

 

とてもとてもフラットな心境。

 

 

 

仙人みたいになったんじゃなくて、

 

すべてのあるものを、『そっか、ありたいようにあるんだな』と、

 

とても静かに受け止めていて、

 

心の中に抵抗が少ないような、

 

心の中に摩擦が少ないような、

 

心の中が澄んでてクリーンな風が吹いてるような。

 

 

 

何もなくなっていないし、

 

現実は相変わらず存在しているし、

 

何かは起きて、何かは終わっていくんだけど、

 

それを必死で握りしめて捕まえてたい衝動が、なくなっていっている。

 

 

 

私はあるようにしかあれないし、

 

世界もあるようにしかあれない。

 

コントロールはできない。

 

 

 

それが悲しくもなく、

 

ただ『そうか』と思う。

 

 

 

あんなに愛されたかった私は、

 

今や、

 

相手が何もしてくれなくても、何も思わない。

 

相手が何もしてくれなくても、恨みも湧かない。

 

 

 

例えば恋人でいえば、

 

連絡くれなくても。

 

会えなくても。

 

旅行に一緒に行ってくれなくても。

 

何もしてくれない相手でも、相手を愛してるんだと、思うのです。

 

 

 

今までと全く違うから、最初、冷めたのか?と思った。

 

今までと違いすぎて、愛しているのか分からなかった。

 

だけど、違うんだってわかるようになった。

 

 

 

私は長い人生、今の今まで、

 

何かをしてくれるから、相手を愛していたんだね。

 

相手から何かを得られるから、相手を愛していたんだね。

 

私は相手からばかり、奪いまくっていたのですね。

 

気づかなかったし、知らなかった。

 

 

 

ほんの小さなことなの。

 

会えること、連絡をくれること、抱きしめてくれること、悩みを聞いてくれること。

 

普通に見える、こんな小さなこと。

 

だけど、それを求めるのは、

 

自分の寂しい気持ちを埋めてもらうためなんだって、気づいた。

 

ほんの小さなことだったけど、これを埋めてもらいたい私の心には、

 

小さくても確実に、無数の穴が開いていたんだって、そう気づかされた。

 

 

 

相手に何も求めなくなった時。

 

私の心の穴は塞がったってことなのかな?

 

それも分からないけど、

 

自由に楽しそうにしている相手を、

 

そっと見守っているのも、

 

穏やかで、とてもいいものである。

 

と、思う。

 

 

 

ちなみに、彼は毎日たくさん連絡をくれるようになっていて、

 

『連絡が欲しい』と強く願っていたあの頃とは、全然違う。

 

『会いたい』と強く願っていたあの頃とは。

 

あの時は欲しくて欲しくて仕方がなかったのになぁ。

 

その時にはなくて、

 

『なくてもいい』(なくても好きは変わらないし、寂しくならないから)

 

と思っている今は、それが叶ってる。

 

ほんと、潜在意識は天邪鬼だ。

 

この矛盾はどこまで続くんだろうねぇ。笑

 

 

 

叶うようになったから、手放せたのか?

 

諦めたから、手放せたのか?

 

 

 

どっちもそうかもしれない。

 

願って、願って、願って。

 

執着して、執着して、執着して。

 

そして疲れて、諦めて。

 

そうしたら、ここに立ってた。

 

 

 

けっして、悲しい感じじゃないよ。

 

散々暴れて、疲れて我に返ってみたら、

 

足元に、もう元々転がってた、みたいな感じ。

 

 

 

あれ、私もう持ってた?

 

って感じ。

 

 

 

そうして思う。

 

なにも願うことがなくなってしまった。

 

でも、欲しいものがなくなったわけじゃないよ。

 

相変わらずお金だってほしいし、

 

ふか~い愛情を注いでくれる恋人は存在してほしい。

 

自分は素晴らしい!と思いたいし、

 

色んな所へいって、いろんなものを楽しみたい。

 

お友達だってほしい。

 

 

 

だけど、

 

世界はなるようになっていて、

 

あるものはもう用意されていて、

 

それが暴れている間には見えなくなっている。

 

ってことに、気づいた気がするから、

 

もう『欲しい欲しい欲しい!!!』って暴れる気が起きない、

 

という感じ。

 

 

 

こうなったからといって、

 

意欲を失ったわけじゃないし、

 

なにも無くしてすらいない。

 

 

 

ただ、なんだろう。

 

あの頃「持っていない」不安で暴れてたのが、

 

「ほっといたら手に入る」から不安にならない。

 

そういう感じかなぁ。

 

実際にはまだ現れていないものもあるんだけど、

 

最近、不思議な偶然が頻発していて、

 

結果的に欲しかったものが手に入った、ってことが増えているので、

 

いつかそのうち、手に入るから、今は考えなくていいや。

 

という感じかも。

 

 

 

暴れるのにはエネルギーがいるし、

 

そもそもこの世界は自分の生き写しなわけだし、

 

暴れても手に入んないものは入んない。

 

暴れなくても手に入るものは入る。

 

ちょっと前はそれが不確定すぎてすごく嫌だったの。

 

だけど今はね、

 

叶ったり叶わなかったりする、結局は潜在意識なんてない。

 

ってことではなくて、

 

自分にとって本当には必要なものは必ず手に入る。

 

という信頼であり、

 

潜在意識が私にふさわしいものを、

 

必ず幸せになれるものを実現させてくれるものであって、

 

叶わないのは私が本当には願ってないってことなのかも。

 

と思い始めています。

 

 

 

そういうと、

 

「逃げ」ともとれるし、

 

「諦め」「潜在意識なんてない」と思う人がいるかもしれないけど、

 

そういうことじゃなくて、

 

潜在意識は、顕在意識で考える私のアイデア以上の、才能と力を持っていて、

 

私の想像のはるか上から、何1000倍も素晴らしい現実をくれる。

 

 

 

私はそれをありがたく受け取って、

 

ものすごく大事に味わう。感謝する。

 

そんな循環が生まれつつあるのです。

 

 

 

元祖1式でいうところの、

 

願望すら潜在意識に丸投げ

 

これが、図らずも少しずつ身についてきているということかな。

 

 

 

だってね、

 

自分が考えていたことよりも、ずっと素敵なの。

 

自分の考えられる範疇を超えて、

 

ものすごく感謝したくなるような現実がプレゼントされるの。

 

自分の思った通りがいい!・・・を手放したら、

 

とっても素敵なプレゼントがもらえる。

 

そうか、私は本当はこれが欲しかったのか!

 

確かに、涙が出るほど嬉しい、感動した・・・。ってなる。

 

そして、自分が今いる世界は、

 

もうすでに素晴らしく完璧だった、と知ることになる。

 

 

 

潜在意識を信頼して、

 

暴れることなく、

 

自分を自由に、

 

他人を自由に、

 

楽に体をゆるめていると、

 

とても心地いいのです。

 

 

 

元祖1式で思考停止をすると、

 

そういう感覚が分かると思う。

 

思考と感情を手放して、

 

ものごとをあるがままにしていると、

 

とても心が落ち着いて、穏やかで気持ちがいいのです。

 

 

 

今日は叶ったことを書くのは辞めておきます。

 

今、小さな実現が、ひとつひとつ連なって、

 

螺旋階段みたいに上昇していく。

 

そんな流れを体感中です。

 

またそれがまとまったら、いつか書きたいと思います。

 

 

 

 

〘 元祖1式 〙98-100日目 頑張ってきた私は傍観者になった

 

なんと!

 

元祖1式を頑張り始めて、とうとう100日目になった!

 

記念すべき100日目。

 

 

 

前回、何もかもしなくなった、と書いた。

 

そうやって過ごしてみて、

 

分かったことがある。

 

 

 

究極の手放しは、元祖1式だった、ということ。

 

 

 

何もやる気が起きなくなって、

 

イメージングもアファもしない。

 

そんな風に過ごしていた。

 

現実に不都合(そうな)ことが起こっても、

 

気にしない。

 

そんな風になった。

 

 

 

何もしなくなった私の内側を詳細に書くと、

 

職場のいけすかない女性。

 

この女性がイライラすると、

 

『わぁ~、また何か嫌味を言われるかもしれない』

 

『またミスして怒らしちゃったかな?』

 

『私の何かがいけなかったからだ』

 

という感情と思考が自動的に湧いてくるんだけど、

 

それを、

 

「この感情も思考も、私のものではない」

 

と、無視するようになった。

 

こうなってほしい!というポジティブなアファもしない。

 

感情も込めてない。

 

ただ、「私のものじゃない」と、淡々と却下している。

 

そうすると、何も感じないし、何もしなくてもいいから。

 

現実に、彼女の機嫌を取ることもしないし、

 

自分の行動を改めることもしない。

 

『この現実は私には関係ない』

 

として、感情や思考が動くのを瞬殺で止めている。

 

 

 

そうこうしていたら、

 

私の行動は勝手に「現実の彼女も無視する」となってしまい、

 

彼女が嫌味を言っても反応しないし、返事もしない。

 

となってしまった。笑

 

 

 

そうしたら、

 

頭の良い彼女は何かを察したらしく、

 

(多分、私に嫌われている、もしくは私がいい加減怒っている、と思ったのかも)

 

イライラをぶつけてこなくなり、

 

なんでか私に下手に話しかけてくるようになった。

 

ビックリ。

 

でも、どーでもいいから、それを嬉しいとか気持ち悪いとか思う気持ちもどっかいっちゃった。

 

私にとって彼女は、ある意味どーでもいいから、仕方ないです。

 

 

 

あとは、恋人さん。

 

仲良くお付き合いをしてはいるけど、

 

なにぶん、ものすごく多忙な人なので、

 

私が会いたい時に会えない。

 

前回は会いたいと言いすぎてフラれたのもあるので、

 

あんまり会いたいと主張もできず、モヤモヤする部分があった。

 

それも、どーでもよくなった。

 

『私が会いたいと思うのだから、会えるかどうかは別にして、会いたいのだ!』

 

と思うようになった。

 

そうしたら、彼の方から

 

「(会いたくなったら)僕も言うから、いつでも言ってくれていいよ」と言われ、

 

1回会うと、いつも2週間以上は間があくのに(相手が忙しいのは本当。彼は複数の会社経営者だから出張も多いし)、

 

なんと忙しい合間を縫って、

 

なんなら無理くり時間を捻出して、

 

前回からたった1週間で会いに来てくれた。

 

会えたのは嬉しかった。楽しかった。

 

会えた時の私に対するベタ惚れ具合がすごかった。

 

 

 

でも、その感情や思考に過剰に盛り上がることもなく、

 

『なるほど、現実ではそうなってくるわけね』

 

と、起きた出来事に対して、心底受け身でいる。

 

 

 

それ以外では、

 

彼からの連絡が異常に増えていること。

 

会ってない間のコミュニケーションが増えた。

 

というか、私にとって分かりやすく『大事に想われているなぁ』という現実が増え続けている。

 

 

 

でもね、

 

現実順調やん!

 

とも思うし、実際そうなっていっているんだけど、

 

ちょっと思ったのが、

 

どんなに幸せな現実がきても、

 

不足を探そうと思えばいくらでも探せるんだなぁ、ってこと。

 

 

 

例えば、彼と会える日が多くなったとて、

 

会えていない日はあるわけで、

 

そんな間に、勝手に『愛されていないかもしれない』って感情・思考が湧くのよね。

 

逆に言えば、そこに何の証拠もなくても、

 

「不安」は勝手に湧いてきてる。

 

それに、気が付いた。

 

 

 

悪い妄想をすることは本当に簡単で、

 

『会っていない間に、彼は他の女性と遊んでいるかもしれない』

 

これって、ただの悪い想像ともいえるし、

 

でも本当は真実かもしれない。

 

ね、良い想像も、悪い想像も、それを考えた時点では、どっちも真実なんだよね。

 

で、悪い妄想はしちゃダメ!!

 

って止めるというよりは、

 

そもそも、それ自体が存在しない、と思う大前提の方が真実だと思うのです。

 

 

 

上手く言えないんだけど、

 

どんな思考が湧いても、

 

それを「ある」という前提で「なかったこと」にするために止めるんじゃなくて、

 

その湧いた妄想が、「存在しない」って感じなの。

 

 

 

どんな幸せな現実を手にしていても、

 

隙間を見つけては不足を探す。

 

これは人間のサガなのかもしれない。

 

だけど、

 

もういいでしょう。

 

その不足、本当なの? って思う。

 

 

 

で、前回書いたように、

 

自分にとってはポジティブな想像も、

 

ネガティブな想像と同質のように思う。

 

 

 

それって、「本当なの?」って思う。

 

 

 

無理くりポジティブな想像をしたとき、

 

同時に湧いてくる不安があるよね。

 

「でもそうじゃなかったらどうしよう」

 

って、結局ネガティブな想像を同時にしている気がする。

 

だったら、何も考えなくても、いいんじゃないだろうか。

 

 

 

ここ数日は、

 

脱力して本当に何もしていない。

 

だけど、自分の内側ではこんな風に変化が訪れていた。

 

 

 

ポジティブを手放すのが怖かった。

 

何にもしなくなることに不安があったの。

 

だけど、手放してみて、流れに身を任せていても、

 

結局は幸せで自分に都合のいい現実が勝手に現れてきた。

 

 

 

というか、

 

ポジティブな創造を頑張っていた時より、

 

実現化が早い気がするのです。

 

 

 

なーんにもやる気が起きなくなってから、

 

本当に流れに身を任せている。

 

ただ、現実に対して、ネガティブな反応を起こした時、

 

『あぁ、これは嘘だ。私のものじゃない。全部捨ててしまっても問題は起きない』

 

と思うようになって、

 

そこだけは意図的に手放して、でも何も行動も起こさず、傍観している。

 

 

 

元祖1式が、いま一番上手にやれている気がする。

 

最近、エゴという言葉を使うことが格段に減った。

 

エゴもへったくれもないの。

 

全ての思考・感情は、どーでもいい。

 

これが今の私の結論。

 

 

 

何か理由も分からずモヤモヤすることがあっても、

 

たぶんね、ネガティブだったり、自分にとってしんどいことは全部、嘘なんだよ。

 

嘘だし、必要ないことなの。

 

だったらそれを改善するために頑張る必要もない。

 

そもそも必要ないものなんだから、ただ捨てる。それだけ。

 

 

 

最近はずっとそんな感じで過ごしている。

 

モヤモヤする → これは嘘

 

恥をかいて冷や汗 → これも嘘。存在しない。

 

小躍りするほど嬉しいこと → これも存在しない。

 

 

 

嬉しいことを喜ばない、って意味ではない。

 

嬉しいことに、過剰に反応しないってだけで、

 

これは自分にとって嬉しい・幸せだ、という認識はちゃんとある。

 

ただ、嬉しいに反応しないの。

 

そうしたら、その喜びを維持しようと行動を起こしてしまうこともないし、

 

その喜びがなくなる不安もない。

 

そうしたら、なんでかわからないけど、喜びが勝手に増えていく。不思議。

 

逆に、悲しみにも反応しない。

 

そうしていたら、わざわざ悲しみを増やす行動をする必要がなくなって、

 

私の場合は自然に、悲しみが減っていってた。

 

 

 

なんでそうなったのか分からないけど、

 

ただ何にも反応しない(思考停止)していたら、

 

自分にとって不都合なことが減っていってる。

 

あんなに減ってほしかった苦しみ、増えてほしかった喜びが、

 

自分でコントロールしなくても、手元に現れてきつつある。

 

 

 

元祖1式の開始時は、

 

悲しみを止めることだけで必死だった。

 

そして今、喜びを手放すことも学んだ。

 

やっと正式な元祖1式に辿り着いたのかと思う。

 

でも、それを目指して頑張ってきたいま、

 

なんと。どーでもいい。の心境。

 

元祖1さんはこれくらい、全て手放していたのかもしれないなぁ。

 

ほんと強者だなぁ、と思った。

 

 

 

 

最後に、どーでもいい話を。

 

恋人さんの支払っている住民税の月額が、

 

私の月収と同じくらいだと知った。

 

すげー! 

 

こんなに税金納めてる人達が、世の中にはたくさんいるのか!と。

 

ほんと、自分のまだまだ知らない世界があるんだな。

 

面白い世界が展開されていってくれるといいな。

 

 

 

何が起きても、受け止めれるだけの余裕ができてきて、

 

それに伴って、世界が変化していっているように思う。

 

それは喜びにも反応せず、喜びに対する制限が外れたから。

 

これからも、起きてくることに受け身でいよーっと。

 

だってもう、何が起きてもどーでもいいんだもん。

 

 

 

 

 

〘 元祖1式 〙94-97日目 私の幸せは「刺激」だったみたい

 

最近のこと。

 

なんか、急にすべてのやる気が失せた。

 

「なる」のように断固としたイメージングと決意を持つのも。

 

現実を見て、感情を沸き立たせてしまって、それに対処するのも。

 

 

 

潜在意識が理解できるようになって、

 

信頼できるようになっても、

 

やっぱり人間である限り、

 

不快な出来事や、不快な現象は起きるのであって、

 

それに感情が揺さぶられることは、あるんですよね。

 

 

 

で、潜在意識のことを知っているから、

 

理解しているから、信頼しているからこそ、

 

現実は「幻想」ってことも分かるんです。

 

だから現実に反応した自分を思考停止で切り捨てたり、

 

『あぁ、これも私には関係ないんだったな』と思って、

 

思考停止だけじゃなく、それをポジティブな決意で塗り替えたり、

 

色々していたんです。

 

基本的にポジティブで返す、って感じ。

 

 

 

だけど、この数日、

 

なんかそれがどうでもよくなってしまって、

 

ポジティブなイメージングも、なんか飽きてしまって。

 

自分でもよく分からないけど、

 

ポジティブに起こす(現実にも内側的にも)何もかもが、

 

面倒になって仕方なくなった。

 

 

 

結局、

 

すべてはなるように現実に反映されて起こってきてて、

 

それに対する(思考停止も含めた)何もかも、

 

実はどうでもいいんじゃないかと思えてきた。

 

 

 

そうやって意図的にではなく、

 

なんなら脱力的に、何もしなくなってしまった。

 

 

 

そうしたら湧いてきたのが、

 

何もしないことへの不安。

 

 

 

思えば本願が発生してから、

 

潜在意識を「意識」して、

 

自分を奮い立たせて頑張って来たな。

 

 

 

達人さんたちが言う通り、

 

ある程度の軌道に乗るまでは、

 

そのための努力は必要だったな、と思う。

 

 

 

私はまだまだ実践者で、

 

達人の域には程遠く、

 

色々と思うこともある。

 

 

 

なぜなら、

 

本願は達成されたけど、

 

それ以外はそれほどでもなく思えたからだ。

 

金銭面や、「モテる」という意味での人間関係、普段の何気ない日常など。

 

私が『はぁぁ♡幸せ♡』と思えるには程遠く、

 

せっかく幸せになってはいるのに、

 

その反面で不満が少しずつ増えてくるというか・・・

 

 

 

それで気づいたのよね。

 

「なる」などでの本願達成は、

 

私にとって「刺激」でしかなかったってことに。

 

 

 

一見、幸せな出来事が起こるんだ。

 

だけど、それが当たり前になっていく。

 

そうすると、新たに「不足」を発見して、

 

また改善するために願う。

 

これを繰り返している。

 

 

 

考えてみると、

 

そうやって少しずつ螺旋階段を登っていっている、ともいえる。

 

少しずつ幸せが改善・向上されていくのなら、

 

いつかは幸せな世界に辿り着くのかもしれない。

 

ここで放り投げてはいけない気がする、って。

 

 

 

でも、

 

明確に私は「不足」を感じていて、

 

幸せなはずなのに「不足」を感じていて、

 

それに煩わされるようになった。

 

 

 

それは、住むところも食べるものもなかった人が、

 

住むところを得て普通に食事をできるようになり、

 

それがいつか当たり前になってくると、

 

もっと裕福な生活を夢見るようになる感じ。

 

住むところがあることだけでも幸せだった私が、

 

いつしかその有難みを忘れて、

 

ゴージャスな生活じゃないことに不満を言い出してるみたいな。

 

 

 

けっして「望みを持つ」ことが悪いという意味じゃなくて、

 

なんというか・・・際限がない感じ?

 

そう。

 

これじゃあずっと、幸せになれない気がする。

 

って、気づいたのかもしれない。

 

 

 

それでここ数日以来、

 

なーんもしなくなった。

 

しなくなっちゃったの。

 

不都合な現実が来ても、

 

仕事しんどいなーと思っても、

 

もうそれに取り組まない。

 

それを塗り替えるために潜在意識も使わない。

 

願わない。改善しない。

 

ただ受けるだけ。

 

ただ、過ごすだけ。

 

現実はなーんにも変わらない。

 

変えようとしもしてないから、当然変わらない。

 

でも、それでもなーんにもしないの。

 

 

 

で、私の心境なんだけど、面白いことが起こってる。

 

お風呂に入っているなら、お風呂に入っているだけ。

 

しんどい仕事をしているなら、ただその仕事をこなしているだけ。

 

ご飯を食べているなら、食べているだけ。

 

え? っていうくらい、普通でしょ。

 

だけど、中身が違うの。

 

 

 

私、ここ最近やっと、にいるんだよ。

 

 

 

仕事をしているときはその目の前の仕事だけ。

 

ご飯食べているときは、そのご飯のことだけ。

 

お風呂に入っているときは、お風呂で一生懸命体を洗ってるの。

 

 

 

ふっと気づいたの。

 

私、大人になってから、

 

いつもいつも何かをしながら、その先を案じていたの。

 

お風呂に入りながら、

 

『あー、今からお風呂なら、上がれるのは〇時くらいになる。それなら寝るのは〇時になっちゃうなー』

 

朝ご飯を食べながら、

 

『あー、今日は〇〇さんお休みの日だから仕事量が1.5倍だな。そしたら帰ってきた時にはこんくらい疲れてるだろうなー』

 

仕事をしながら、

 

『この仕事しんどいなぁ。これ終わったらまだ○○して、〇〇も残ってるなー』

 

 

 

こんな感じで、

 

大人になって、先が読めるように頭が育ったがゆえに、

 

先のことを想像・計画して、

 

そして本当は、まだ起こってないことに対して、心の中ですでに疲れてたんだな。

 

って思った。

 

 

 

最近、冒頭から書いているように、

 

先をコントロールというか、願うことにひどく疲れていたので、

 

先のことをなーんも計画せず、先読みせず、

 

ただ目の前にあることだけに着手することにしてた。

 

してた、というか、そうなってた。

 

 

 

そしたらね、

 

なんか、何も考えなくなったの。

 

目の前にあるものをただこなす、って感じではないな。

 

味わうってほど力も入ってない。

 

でもなーんも感じないわけでもない。

 

ほんわか安心・安全なときに感じる感覚に、浸ってるようになった。

 

 

 

で、頭で理解したの。

 

この感じって、

 

既にある世界の安心感と一緒だなぁ、って。

 

 

 

目の前のことに、必死に集中してたわけじゃないのに、

 

目の前のことしかないから、それをやってただけ。

 

そこに何の不安も期待もないわけです。

 

そしたら、妙に、何でしょうこの感じ。安心するんだよね。

 

落ち着いてる、ともいう。

 

 

 

で、これは頭での解釈だけど、

 

あぁ、私、手放したんだなぁ、と思った。

 

なんか疲れて放り投げただけだから、あれなんだけど、

 

潜在意識に、全て丸投げしてるんだ。

 

って思った。

 

 

 

なんとそこには、

 

なんの幸福感も、不安感も、期待も、ワクワクも、

 

なーんもないの。

 

だからエゴが、「願わないとマズイよ!」「頑張らないとマズイよ!」って騒ぐ。

 

だけど、

 

なんかもう、どうでもいい。

 

だって、必死に願って叶っても、新たな不満がでてくるなら、意味ないじゃん。

 

そういう獲得レースをやり続けることに、疲れちゃったんだよ。

 

 

 

エゴが

 

「潜在意識を意識して(ヘンなの。笑)過ごさないと、何も手に入らなくなるよ!」

 

「何かを願わなければ、何も叶わないよ!現状が続いちゃうよ!」

 

って不安を掻き立てて騒いております。

 

 

 

それが本当に思える気がして、面白いんだけど、

 

だけどもう、何も叶わなくてもいいかもしれない。

 

現状で十分、って思うことに、

 

なんでか悲しみと不安がのしかかってくるけど・・・

 

そうだね、これがエゴの声なんだろうなぁ。

 

 

 

本物みたいな不安!

 

すんごいよくできてるよね!

 

感心するわぁ。ほんと。

 

 

 

でもさ、本当の意味でネガティブな感情や思考って、

 

本当に自分のものじゃないんだろうな、って思う。

 

それが「本当にそうだった!」って確信できる現実を欲してしまうけど、

 

それももう諦めた。

 

 

 

多分、ネガティブは私の本当のものではない、と思う。

 

ポジティブもなんか、同質のもの、と思う。

 

なーんもない、でも不安もない。

 

なーんもない、でも期待もない。

 

まるで「無」みたいなこれが、デフォルトなのかな、私の。

 

何にも関心がない、っていうのが、私の落ち着く心の在り方なのかもしれない、

 

と思いました。

 

 

 

「無」の立ち位置にいると、

 

華やかな感情は、刺激なんだなぁ、と思うようになった。

 

私はその「刺激」を幸せと勘違いしてたのかもなぁ。

 

「刺激」は結局「刺激」でしかなくて、

 

それは麻痺していくから、どんどん強い刺激でしか幸福を感じられなくなる。

 

 

 

それなら私は、もう「刺激」に疲れたから、

 

幸福にならなくても、いいや。

 

なーんも考えない。なーんもしない。

 

 

 

あれー。

 

これって、元祖1式やん。なんじゃこりゃ。

 

って思った。

 

私は今まで、元祖1式をちゃんと実践できてなかったのかもなぁ。

 

じゃぁ、この状態が続いたらどうなるんだろうね。

 

 

 

でももう、期待するのも疲れたからなぁ。

 

でも現状をただこなすだけ。

 

なるようになるし、悪いようにはならないのかもな。

 

「無」に慣れなくて、

 

「無」が虚無に感じる。

 

幸せを「刺激」から受けていた私には、まだ落ち着かないなぁ。

 

 

 

 

またしばらく、観察しながら過ごしてみます。

 

 

 

 

〘 元祖1式 〙93日目 愛するべき本当の自分

 

今日も充実したー!

 

子どもとトランプを楽しんだ!

 

献血に行ってきた!

 

ネイルに行ってきた!

 

子どものお弁当袋を作った!

 

昨日は庭で花火をした!

 

 

 

いやぁ、楽しんだ。

 

今日の晩御飯はみんなでお好み焼きを作ります♡

 

 

 

さて。

 

今日は書いておきたいことができたので、書いておきます。

 

 

 

前回のブログで、「職場のいけすかない女性に傷つけられる私」を書きました。

 

私、やっぱりこの女性と戦えない自分は弱くてダメで、変わらないといけないのかな?ってチラッと思う気持ちがぬぐえなかったの。

 

で、昨日たまたま自己啓発系の本を買って読んで、

 

その中にあったワークを何の気なしにやってみた。

 

そのワークは、自分の幼き頃を振り返って、

 

自分がどんな趣味・趣向・性格なのかを思い出すためのワーク。

 

潜在意識とは関係なくて、顕在意識寄りのワーク。

 

 

 

で、自分の子どもの頃を振り返って、

 

色々と思い出していた時に気が付いたのです。

 

私は生まれつき、優しい人間だった!! と。

 

 

 

それはどういうことかというと、

 

私、子どもの頃はみんなの人気者で、

 

私を取り合ってケンカが勃発したり、

 

逆に、愛しさ余って憎さ100倍、みたいに、

 

「○○ちゃんと仲良くするなら、もう遊んであげない!」

 

みたいな仲間外れをよくされていたのですね。

 

それに、家では姉から陰湿ないじめをうけておりましたし。

 

 

 

で、思い出したのは、

 

そんな意地悪やひどい言動を受けたことがたくさんあるにも関わらず、

 

私、一度もやり返したことがなかったんです。

 

 

 

相手に100倍返ししても別に構わないのに、

 

今までの人生で、一度も人に仕返しをしたり、意地悪をしたことがなかったんです。

 

古い記憶を辿ってみたら、人に意地悪をする自分、っていうのが、

 

全く存在しなかったんです。

 

 

 

要はやられるまま、されるがままだった、ってことなんだけど、

 

泣いたりしたこともあったけど、

 

だけど一度も相手を傷つけたことがなかった。

 

 

 

私は昨日まで「やられるがまま傷つけられる弱い自分はダメ」って悩んでた。

 

なんなら「やり返せる強い自分にならなきゃいけない!?」とすら悩んでた。

 

だけど、納得した。

 

私は生まれつき、人を傷つけることができない人だってこと。

 

そうなるとそれは「弱いからダメ」なんてことじゃなく、

 

私が「生まれつきかなりの善人だ」ってことじゃないか!!

 

 

 

で、

 

やばい、自分最高!!

 

女神!! 女神すぎる!!!(自画自賛

 

・・・となりました。

 

 

 

そしてもう一つ思い出したことが。

 

私は思いつきで動くのが大好きで、

 

他人に興味がない、ってこと。

 

 

 

予定を立てるのが嫌い。

 

思いついたその時に行動したい。

 

その日に何をしたいかは、その日になってみないと分からない。

 

かなりの気分屋。

 

 

 

そうだった。

 

私、いつの間にか常識的に生きることに一生懸命になって、

 

本来の自分っていうのと違う方向へ走ってきてしまったんだ。

 

例えば

 

「みんなが納得してくれるようにちゃんと計画を立てる。予定は守る」

 

「人の気持ちを一番に考え(自分のことは後回し)、興味を持つこと」

 

「思いつきで行動しない。思い付きで出かけない」

 

「思ったことはそのまま言葉に出さない。逡巡してから喋る」

 

「私のやることはいつも間違っているから、みんなと合わせて無難に行動すること」

 

 

 

いや、書いていたらきりがないけど、

 

私は自分の親も見放すほど衝動的で、行動的で、

 

納得いかないものには絶対に従わなくて、

 

思ったことはすぐに口に出して、

 

楽しいことはとことん追求する(他人にどう思われてもいい)。

 

そんなパッションでしか動いてない人間だった。

 

だから母親に嫌われたんだけどね。

 

人の言うことに従わないから。

 

今は気分じゃない、とか思ったら、学校のテストも白紙で提出してた。

 

気分が乗らないときは欠席するし。

 

間違っていることには間違っている、と誰に対しても言う。

 

 

 

書いてみると、「それ、子どもだからできるんじゃん」って思うよね。

 

「大人になったらそういうの、抑えるもんなんじゃない?」って思うよね。

 

私もそう思ってた。

 

だから、常識に沿うように大人になった。

 

 

 

そしたら、ビックリするほど、人生が面白くなくなった。

 

 

 

うん。

 

ほんと、クソがつくほど面白くなくなった。

 

 

 

なんかね。

 

昨日のワークで、

 

私はやっぱりそのままでいい。

 

そう思った。

 

そしてそれは「今の自分のまま」ではないんだな、って思った。

 

「変わらなきゃ!」じゃないの。

 

ただ、本来の自分に戻ることを、自分に許すんだ!って思った。

 

そうしてあげなきゃ、

 

自分は自分に殺されるんだ、って思ったの。

 

 

 

いや、常識を意識して、自分を変えた時点で、

 

私の自分虐待は始まっていたのかもしれない。

 

だから、自愛の観点からいくと、

 

私は人生の半分以上を、「生まれつきの本当の自分は認めない」と、否定し続けてきたのかもしれない。

 

自愛とは正反対のことを、自分に課し続けて、自分に意地悪をしていたのかもしれない。

 

 

 

ワークをしたおかげで、

 

あんなに忌み嫌ってた本来の自分を、

 

そっと受け止めることができた。

 

人生を上手く生きていくために、切り捨てた本当の自分。

 

上手くいくためには邪魔だった、本来の自分というもの。

 

それを、今は、「けっこういいじゃん」

 

もしくは「そっちの方が、愛せる」

 

と、思い始めている。

 

だって、頑張って作って来た自分だけど、

 

なんか中身すっからかんで、張りぼて感が否めない。

 

本物感がない。嘘っぽい。軽い。

 

ともすると、生きてる実感がない、ともいう。

 

 

 

で、冒頭の話に戻るけど、

 

「職場のいけすかない女性に虐められる自分」

 

「それに対抗しない自分」

 

この問題については、

 

「私は元々攻撃性がないから、やり返すのは無駄」

 

ってことが分かった。

 

で、対処法はというと、

 

そうやって意地悪されても、全く意に介さない、子どもの頃に持っていたあのメンタルを取り戻すこと。

 

私、他人にほんと興味がないのですね。

 

旦那様の誕生日すら、覚えることができなかった。笑

 

仲間外れにされても、「あ、別に楽しいことあるんでいいでーす」って感じであっけらかんとしてた。執着しなかった。

 

でも、それがダメだと思って、必死に他人に興味を持つように頑張った。

 

人の要望と顔色をうかがいながら生きるようになった。

 

これでいいですか? これで正解ですか? って。

 

その努力が全部無駄だったとは言わないけど、

 

もういいかな。

 

本来の自分を取り戻してしまいたい、と思った。

 

 

 

あんなに嫌いだった自分が。

 

実際に変えてしまうくらいに嫌だった自分が、

 

本当は自分を助ける、大事な大事な自分だった。

 

 

 

と、昨日とうとう本気で気づくことができたのですね。

 

親に嫌われるほどの自分を、認めることができず、

 

他人に注意されてしまう自分を、認めることができず、

 

努力をしてなくしてしまった。消し去ってしまった。

 

それが、心底人生をつまらないものにするし、

 

とても悲しいことなんだ、と気づくことができた。

 

 

 

私は本来の自分を丸ごと取り戻さなければいけない。

 

そう決意した今日なのでした。

 

 

 

元祖1式とは関係のない話ですみません。

 

でも、丸ごと受け止めて肯定すべき自分が、

 

「今の」自分ではないってことに、やっと気づけました。

 

「今の」私で居続けることは、自分を受け入れてないってことなんだと。

 

自愛を地味に続けてきて、ここに辿り着いたのは幸いでした。

 

そう思うと、

 

「職場のいけ好かない彼女」

 

この人が、私をここに導いてくれたとも言える。

 

やっぱり世界は私に意地悪なんてしていないし、見放してもいない。

 

なんか重要な何かのために差し出された、ギフトなんだな。

 

 

 

 

実際、どうやって元に戻ろう?

 

とも思いますが、

 

何も考えず、「自分最高!」の精神で進めていきたいと思います。

 

 

 

〘 元祖1式 〙86-92日目 現実との付き合い方

 

今日は久しぶりにイライラしてた。

 

朝起きた時から、モヤモヤ。

 

それは、職場の同課にいけすかない女性がいるからなんだけど。

 

詳細は色々ありすぎて書く気にもなれないけど、

 

要するにその女性は、自分のイライラを周りにぶつけて発散するタイプの人で、

 

まぁ、私はいいサンドバッグにされているのです。

 

で、昨日の就業時間後、帰る直前に、また心無い言葉をぶつけられたのが引っ掛かっていて、解消できず朝になってしまった。

 

 

 

でも、朝起きて頭の中でちょっと考えてみたら、

 

すぐに開放されて、スッキリ楽しい今日を迎えられている。

 

 

 

で、私がどうやって解消したかというと、とても簡単で。

 

『この現実から私は何を教えられたんだろ』と質問した。

 

答えは、

 

「私は恥ずかしい存在(常識はずれで恥をかく存在)」

 

「私は人をイラつかせる存在」

 

っていうのだった。

 

あぁ、まだそういう信念があったのね。

 

なるほど。

 

最近「私はハイスペック!」とか思っていたから、

 

その反動というか、「まだこんな観念残ってるよ!」というお知らせか。

 

 

 

そうやって " なるほどなー " って思ったら、

 

イライラモヤモヤさんは消えていった。

 

※ 元祖1式ではそれすら考察することなく瞬殺だよ!というツッコミは今は置いといてくだされ(汗)

 

 

 

で、ボーっとしながら、

 

私はそもそもなんでこんな現実を生成し続けているのかしら。

 

って考えてた。

 

そこから見えてくるのは、

 

弱い自分

 

惨めにサンドバッグにされる自分

 

人に対して強くなれない自分

 

などなど、いくらでも出てくるんだけど、

 

これでいいのかな? こんな自分でいいのかな?

 

って思っちゃった。

 

 

 

もっと、言われたら言い返す、

 

やられたらやり返す、

 

そんな自分になるべきなんじゃないのか。

 

何をされてもやり返さないから、相手がつけあがるんじゃないのか。

 

 

 

だけど、どう考えてもおかしい。

 

私は弱いのではなくて、

 

人に優しいだけだ。

 

人に意地悪することをよしと思わないからしないだけ。

 

でもそうしたら自称「強いから私は」の人に感情はけ口のゴミ箱扱いされる。

 

 

 

でもね。思ったの。

 

私はなんでこんな女性を私の世界に創ったのかな?

 

それは私の中に、

 

「人に優しくしたい」

 

じゃなくて、

 

「人には優しくしなければいけない」

 

って強い思いがあるからじゃないかと。

 

 

 

私は人に優しくありたい。

 

だけどその反面は、

 

人に優しくないのは悪だ!

 

って思いがくっついてるんだな。

 

 

 

良いも悪いも、表裏一体。

 

だから、私が弱かろうが、反対に強い人間がいようが、

 

そんなのはそもそも関係なく、

 

表裏一体、両方はもともとひとつ!

 

人に優しいとかキツイとか、それ自体そのものの観念がどうでもいいことだったのか!と知った。

 

 

 

私はまだ自分に許してない自分がいたのね。

 

それだけの話だった。

 

人に優しい人、人に酷く当たる人。

 

そんなもの、どっちもいないし、どーでもいいんだな。

 

だから私は人に優しくてもいいし、酷く当たる人になっても、

 

どっちでもいいんだな。

 

これを、そうか、と理解した。

 

そしたらこの問題自体が存在してもしなくてもいい、

 

要するに存在しないどーでもいいことになった。

 

 

 

で、続きでボーっと考えてた。

 

私って、なんでこんな人間なんだろ。

 

人って、なんであんな性格なんだろ。

 

ヒト自体は、いろんな観念の集まりで、

 

本当に多彩な人間達がいる。

 

だけど、そのもの、その人!っていうのは、完璧には説明できないよね。

 

いろんな要素が重なりまくって、その人という人間を形作っている。

 

だから詳しく説明なんて不可能だ。

 

それなら私も、きっとそうだね。

 

自分のことは外側からは見られないから分からないけど、

 

きっとそう。

 

 

 

だったらさぁ、私ってなんなの。

 

肉体だけでは「私」ではないのよね。

 

その肉体を持って、動いてるのが「私」

 

ある事象に、どう反応してるかで、私という人間が露わになる。

 

でもそれってさ、「私」なの?

 

観念なんてすぐ変えられちゃうよ。

 

昨日嫌だったことが、そうでもなくなったり、

 

新しいことに気が付いて成長したり。

 

映画観るとき、私にポップコーン持たせるような男は嫌!とか昔思ってた。今やどーでもいい。笑

 

で、それがまたその「観念」をまとってその通りに行動する、肉体のある「私」になる。

 

果たして「私」って、実態のあるものなんだろうか。

 

なんかこう・・・ゆらゆら揺らいで、変化して・・・。

 

「私」なんてものあるのかな、って思った。

 

 

 

訳の分からない話ですが、

 

そんなこんなで、「私」って逆にどんな形でもOKってことなんじゃないか、

 

という結論に至ったんです。

 

 

 

こうでないといけない「私」とか、

 

こうできなくてダメな「私」とか、

 

こんな不確定で不透明で変化しまくれる要素満載の自分に、

 

確固たる「私」なんて必要なんだろうか、と。

 

 

 

そう考えに至ったら、

 

全部やっぱりどーでもよくなった。

 

幸せな私。不幸せな私。

 

そんなもの、本当に存在するのかな?

 

私は今のままで、やっぱり完璧じゃないかな?

 

自分に起きてると思っている問題も、

 

なんかこう、背景の世界も含めた全てと一緒くたに、

 

いつでも変化して、不確定で、実態があるようでないもの。

 

そんななかで果たして心底真剣に注力できるものがあるのか?

 

ゆらゆら揺らいで、のーんびりしてて、

 

起きてくる問題も、私に対して意地悪する彼女も、

 

ぜーんぶ揺らいでて不確定で。

 

私が注力して「意地悪な女」を見つめた時にだけ存在できるんじゃない?

 

と思った。

 

そして、「意地悪される惨めな私」も。

 

 

 

さて。

 

そんな何もかも、なるようになるし、まぁいいか。

 

の気持ちで今日を過ごしております。

 

自分がダメージを受けた!と注力した時にだけ、それが実態を持つんだな。

 

よく分かりました。すみません。

 

やっぱりどーでもいいと流したいと思います。

 

 

 

そして近況です。

 

本願叶って戻って来た恋人。

 

大好きな恋人。

 

だけど、戻って来た時には自分の思う「溺愛される」には程遠く、

 

不満がないわけでもありませんでした。

 

で、それに注力して消耗する自分に気が付いて、

 

「あぁ、無駄!」と思いました。

 

要は内側で私を溺愛してくれる彼と、現実の塩対応の彼と、ギャップがあって、

 

私は再び現実をチラ見するようになっていた、ってこと。

 

で、内側では幸せなのになー・・・と思った私は、

 

思い切って現実を差し戻すことに決めました。

 

「内側の彼くらい溺愛してくれないなら、現実の彼はいらない!」と。

 

 

 

あ、別れたりはしていません。

 

付き合ったままで、会ったりもしつつ、現実は無視したんです。

 

現実で欲しいタイミングで連絡くれない彼を放って置いて、

 

それにモヤモヤするのをやめて、

 

内側の彼に欲しいタイミングで連絡をもらってウフフ♡としてました。

 

内側の彼が現実、ということにした。

 

内側の彼以外は受け取らないことにしたのです。

 

現実の彼の行動なんもかんもに、なんも不満を感じなくなりました。

 

 

 

内側の彼にはメロメロ溺愛されてて、結婚することになっているので、当然不満や不安はありません。

 

 

 

で、どうなったかというと。

 

現実の彼から、連絡がさらに増え、会っているときの言動が溺愛に変化した。

 

自分でも、自分の思うように「わぁ、愛されてるなー」と満足いくようになりました。

 

面白いなぁ。って思った。

 

現実がちゃんと内側に追いついてくる、という体験でした。

 

 

 

内側で望む世界を創って、信じて浸っているだけでいい。

 

それを体験できて、潜在意識への信頼感がまた上がりました。

 

ただ、冒頭に書いた仕事での問題だけは、

 

「自分が望む世界」が分からないんですよね。

 

彼女のイライラで人に当たる性格が治ってほしい!でもないし。

 

職場がすごしやすくなる!でもないし。

 

望むことが見当たらないから、内側で創りようがないんですよね。

 

 

 

で、よく考えたら、

 

私の望む世界は「仕事を辞めたい」もしくは「働かなくて生きていきたい」だから、

 

職場の環境改善には、そら興味湧かないはずですね。

 

さらに言えば、仕事辞めたいが望みだから、仕事辞めたいなぁと思う現実を創ってくれてるのかもしれないね。

 

でも「仕事楽しい♡辞めたくない♡」な自分には全く興味がわかないや。

 

 

ということで、

 

現実は内側に絶対に追いついてくる!

 

ということと、

 

現実はやっぱり、自分の内側に持っている観念を見せてくれているだけ。

 

ということ。

 

そうなんだよな~、と再確認した週末でした。

 

あ、ついでにのろけさせていただくと、今とても幸せです♡

 

 

 

職場の彼女も、私が創った人なんだよな。

 

私の「~はダメ!」と、

 

私の中に強固にある「私は人に雑に扱われる」っていう観念を見せてくれた。

 

見せてくれて、知らせてくれて、どうもありがとう。

 

そして、現実にはなーんも対処しません。笑

 

さて。またゆるーく幸せに頑張っていこうと思います。

 

 

 

〘 元祖1式 〙79-85日目 自分の内側で決めたことを譲らない

 

今日は朝起きて、なんにもないのに幸福感が溢れていた。

 

『はぁ、幸せだなぁ』

 

感想にすると、ほんとこんな感じ。

 

自己観察さんが仰っていた、

 

「呼吸をするだけで満たされて幸せを感じる」

 

っていう境地まではいっていないけど、

 

なーんもないのに幸せ。

 

激務が続いた後の、何にも予定のない休みの日だからかもしれないけど。

 

だけど、なんにも焦ってなくて、不安がなくて、不足のない。

 

目覚めてからこんなにほんわか幸せな日ってそうない。

 

 

 

本願が叶ってからはや約2週間が経過。

 

その後どうしていたかというと、

 

やっぱりエゴ(現実)にドキッとさせられることはあった。

 

例えば、

 

仕事中に、なんか判断間違ったかも!?

 

今の態度や発言はまずかったかも!?

 

って思う瞬間はあった。

 

で、そのあとモヤモヤ。

 

要は『職場での自分の立場が危うくなるかもしれない!』

 

ってエゴが騒いだのね。

 

こんなのは前からずっとあった。

 

 

 

だけど、以前と違うのは、

 

そのあとすぐに、

 

『いや、私はハイスペックだから、そんな不安になる必要なかった!』

 

とすぐに切り替えられるようになったこと。

 

 

 

不安がないわけじゃない。

 

恐い想像をしなくなったわけじゃない。

 

だけど、飲み込まれなくなった。

 

これは前回に書いた通り、

 

現実無視が上手になったからだ。

 

 

 

ここ1ヶ月以上、ずっと続けてきた自愛。

 

私の場合、ノートになんでもかんでもネガティブでも書いていた。

 

いわゆるブレインダンプとおんなじかもしれない。

 

で、それのお陰で自愛のラスボスに辿り着けたんだけど、

 

その後も、今日も、ずっと続けてノートは書くようにしてる。

 

 

 

ここ1週間で変化が訪れて、

 

毎朝同じようにノートは書くんだけど、

 

ネガティブなことがとうとう出てこなくなった。

 

ノートを書いても書いても、肯定ポジティブな言葉が並ぶようになった。

 

無理してポジティブにしているんじゃないのに、

 

ノートにほんとネガティブな言葉がつづられなくなった。

 

 

 

最近書かれるのは、自分へ向けたアファみたいな言葉達。

 

「私は十分ハイスペック!」

 

「私は大切に愛されてるから大丈夫!」

 

「私は宇宙で一番価値が高い」

 

「私は宇宙で一番可愛がられている」

 

「私はみんなメロメロにベタ惚れ溺愛されてる」

 

「私は私が大好き。私が一番大切。今日は何したい?今日は何着たい?」

 

などなど。

 

 

 

不思議なのは、

 

以前、「なる」とか「アファ」として言い聞かせても、

 

うすら寒くて、どう考えても叶わなそうで、不審な言葉達だったものが、

 

今やすんなり、『そうだよね!』『そうだったわ、どうも!』

 

って自分への確認の言葉みたいに入ってくる。

 

受け入れられる。

 

 

 

その中で書いたときに、一番しっくりきたのが

 

「私はもう十分!!十分にハイスペック!!」って言葉。

 

これ書いたとき、上手く表現できないけど、自分の魂が喜んだみたいにじんわり心に染み入った。

 

いや、明らかに喜んでいたと思う。

 

自分にしっくりくるアファはこうやって発見していくものなのかと思った。

 

 

 

で、こうやって自分にしっくりくるアファを探っていってみたら、

 

たくさんたくさん書いてみたら、

 

自分にしっくりくるものが、今の自分の受け取れる範疇のものってことなのかもしれない。

 

と思った。

 

 

 

例えば、「私はお金持ち!」っていう言葉。

 

これはなんか、拒否反応はないものの、

 

あの「魂が喜んで心がじんわり♡」みたいな反応が起きない。

 

私は自他ともに認める守銭奴なんで

 

この言葉は自分に必要な気がするんだけど、

 

あんまり心が躍らないの。

 

 

 

で、思った。

 

私、そんなにたくさんのお金に執着なかったのかもな、って。

 

 

 

自分の心と向き合うってこういうことなのかな、と思った。

 

単純に、自分が求めていそうなことなのに、

 

本当に真摯に向き合ってみると、そこはあまり求めてないみたいだった。

 

もしくはまだ、受け取れるくらいに心が拡大していないのかも、とも思った。

 

 

 

私は人生波乱万丈サバイバーで、

 

自分のことは、生きていることが許せないくらい嫌いだった。

 

そんな私が、『生まれてこれてよかった!』と思えるくらいにはなった。

 

自愛のおかげや、ほんと。

 

でも、人生どん底に慣れている自分から、まだ颯爽と抜け出したわけじゃないみたい。

 

今までの人生が染みついていて、急にセレブな自分!には慣れることができない。

 

今後は、願望のレベルをアップできるようになれればいいな、と薄っすら考えてる。

 

 

 

最近の私。

 

戻って来た恋人に対して、ちょっと不安になった。

 

仕事での不調和に、ちょっと不安になった。

 

そう。

 

やっぱりエゴの声に耳を貸してしまって、

 

チラッと現実を見てしまったのね。

 

 

 

で、冒頭らへんの話に戻るけど、

 

『いや!!!私はハイスペックなんで、心配ご無用!!!』

 

とその不安を切り捨ててみたの。

 

思い切って。

 

 

 

そしたら、不安はすーっと消えていって、

 

やっぱり「ハイスペック」な自分に戻った。

 

 

 

いや、私は現実にはハイスペックではないんですよ。

 

それは自己紹介読んでもらえればわかることなんですけど。

 

 

 

要は、自分の脳内で、ハイスペックな自分であることを譲らなかったってことです。

 

 

 

最近は自分の内側が本物だ!

 

って決めて生活している。

 

私がルールだ! わはは!

 

恋人にも、「メロメロベタ惚れ溺愛」されてる。

 

えぇ、そうなんです。

 

絶対、彼は私を愛しているんです。

 

なんなら、可愛くて仕方がない!!と家で悶えているんです。

 

多分、じゃないんです。  絶対なんです。

 

・・・私の脳内では。

 

 

 

で、現実を見ていつも通り不安に駆られたんです。はい。

 

でもそこで思い切って、

 

「いや!!!私はもう既に大切に愛されてるんで、大丈夫です!!!」

 

って現実を無視することにした。

 

そしたら、

 

そしたらね。

 

なーんもなかったの。

 

そう。なーんも起きなかった。

 

 

 

仕事のこともそう。

 

『これは絶対自分の評価を落とした!どうしよう!』

 

と思ったことも、

 

「いや!!!私はハイスペックなんで!!!そんなことで評価なんて下がらないんで!!!」

 

って思い切って現実を無視したの。

 

上司のなんとなく「こいつ大丈夫か?」と思ってそうな表情も、全部全部、無視して、

 

「私はハイスペック!!!」ってことを譲らなかったの。

 

そしたら。

 

そう。

 

なーんも起こらなかったの。

 

 

 

 

うーん・・・上手く説明できないんだけども。

 

いつもならその不安に内側の自分を明け渡して、

 

不安になって、不安になって、

 

その不安が真実である証拠を探しまくってたと思うんだけど、

 

それを辞めたの。

 

事実、上司は不穏な表情にみえたけど、

 

そうやって自分の不安を支える現実を見ないことにしたの。

 

 

 

そしたら、元からなーんもなかったみたいに、

 

何にも起きなかった。

 

上司はまたいつもみたいに明るく話しかけてくれて、問題なかったし、

 

恋人はむしろ連絡が増えて、なんなら電話を掛けてくるようになった。

 

やっぱり大切に愛されてる!と思える現象を受け取った。

 

 

 

そう。

 

私が「愛されてる!」「ハイスペックだから評価は下がらない!」

 

って(自分の中で)宣言した通りに現実は動いた。

 

 

 

で、気づいたの。

 

今までエゴの言葉に騙されて現実をガン見して、

 

いつもいつもいつもいつも、内側の決意を明け渡してたんだってことに。

 

それをしていたのが、自分自身だった! と気づいた。

 

 

 

意地でも明け渡さなかったとき、

 

私が感じたのは別の「不安」だった。

 

『本当はエゴの言う通りで、こんな無視して平気にふるまっていたら、もっとマズイことになるんじゃないのか・・・?』

 

って。

 

エゴの言う通りに「不安」に対処しないことが、

 

もうね、死ぬほど不安で動悸がした!

 

 

 

だけど、

 

そう。

 

なーんも起きなかったの。

 

エゴの言ってたようなことは、なーんも起こらなかった。

 

むしろ、自分が恐れながらも手放さなかった、

 

「私はハイスペックだから人から蔑まれるなんてことない!」

 

「私は彼に大切に愛されている!!」

 

・・・の方が実現したの。ビックリ。

 

 

 

 

今回のことで学んだのは、

 

やっぱり自分の内側でなんでも創造してていいし、

 

現実とズレがあるように見えても、

 

死んでも取り下げなくていい!

 

ってことだった。

 

 

 

なんかね、自分の内側で決めたことを現実でも振る舞うことに、

 

いささか『なんかすみません。自分なんかが、すみません』みたいな

 

いらない謙虚さが出てくるんだよね。

 

今まで自分がどれだけ、現実の下僕をしてて、

 

今まで自分がどれだけ、自分を卑下していたのかがよく分かるよね。

 

 

 

でも、慣れていかなきゃ、って思った。

 

自分の内側で信じている自分に、慣れていかなきゃな、って思った。

 

 

 

内側の自分が行きたいステージに立つ自分に、

 

ちょっとずつ慣れていこうとしている過程にいるんだな、

 

でも自分に無理させず、ちょっとずつ進もう。

 

と思った今日この頃です。

 

自分の内側で決めたことが、本物に思えるようになってきたところだから、

 

大事に大事に進めてあげようと思います。

 

私もいち実践者。

 

昨日より今日。前進できていればOK!

 

ゆるーく、だけどエゴには厳しく!頑張っていきます。