〘 元祖1式 〙41・42日目 幸せで泣いた
既にある世界に浸って生きてる。
その立ち位置から、エゴを眺めてる。
ただ、それだけ。
元カレさんからどう思われても、もういいやと思った。
この現実世界で起こること、それはつまり、
本当の私が体験したくて実現させたことだと、腑に落ちた。
だから、元カレさんから受ける何もかも、
エゴの観念を通すと、「愛されていない現実」「愛されていない態度」
そう見えていて、一瞬傷つきそうになるけど、
既にある世界=(私にとっては)毛布にくるまれた至福の世界、
そこにいて眺めているだけ。
エゴの言葉を借りると「愛されていない」ということになるのかもしれないけど、
それも全部、私が体験したくて創った。と、認めた。
そしたらそれは辛い現実なんかじゃなくて、
ただただ、体験して通り過ぎるだけの現実になった。
そうやって、
元カレさんの態度や言動に、いちいち振り回されなくなったら、
元カレさんのする態度や言動が、いちいち私を体験させるためなんだとわかって、
とても、ありがたいと思うようになった。
ついでに言うと、元カレさんという登場人物すら、
本当の私にしたら、体験のための人物であって、
それに固執するようなこともなく、
ただただ、眺めているだけ、となった。
今日突然、元カレさんに「好き」と言いたくなって、
「好き」と言ってみた。
私のエゴは、その瞬間からザワザワ大嵐を起こした。
『好きとも言われてないのに、こっちからそんなこと言ったらダメ!』
『先に下手にでてしまったら、相手は私をナメてもっと適当に扱うようになる!』
『付き合っても好かれてもない人に、そんな情けないこと言うなんて!!!』
ってね。ものすごく、騒いだの。
だけど、私は毛布ぬくぬくの至福の世界に閉じこもって、
意地でも出ていかず、幸せを感じ続けてた。
現実なんて創造後のもう出来上がっちゃってるものだから、
それに対して私がどんな行動をしようと、別に関係ない。
今大事なのは、私が内側で感じて信じてることだから。
それが分かってるから、意地でもエゴの話に乗らず、
現実がどう転ぼうとどうでもいいや。
だって、それすら私が体験したいことだから。
と思ってた。
そしたら元カレさんが、「〇〇ちゃん。ありがとう」と言った。
少し前の自分なら、
『好きって返してくれてない!』
『好きじゃない人に好きって言われたら、そう返すしかないよな』
『脈なしだ!悲しすぎる』
って思ったんじゃないかな。
だけど、そうやって思考することを放棄して、
毛布ぬくぬく至福の世界に留まっていたら、
そしたらただ、ただ、本当に。
「こちらこそ、聞いてくれてありがと!」
そう元カレさんに心から言えた。
そうなの。
もう、元カレさんの反応に、感謝しかでてこなかった。
もう、元カレさんの反応なんていいの。
私が「好き」って言いたかったんだから、それでよくて、
それを温かく受け止めてもらった。
と、思った。
以前の私と真逆の捉え方だね。
でもね、真意なんてどーでもいいの。
だってね、これからの世界は私が創るんだから。
元カレさんの言った言葉が、いい意味か、悪い意味か。
私が良い意味にとるなら、そうなる。
ただそれだけだ。
もう一つ。
今日、職場の人が私に言った。
「あなたは普通の人と違って、感受性が豊かだ」
この「感受性が豊か」と言う言葉。
私は過去に、悪い意味でよく使われた。
『あなたは感受性が強すぎる』と。
でも今日は、そうじゃなかった。
「あなたの感性は、人が気づかない世界の素晴らしいものを捉えることができる。その感受性はほかにはない才能だ。あなたは素晴らしい人だ」
って、そうやって良い意味でその言葉を、私に掛けてくれた。
幸せは段階的にくる、と元祖1さんが言ってた。
私は今日、その言葉に、家に帰ってから泣いた。
久しぶりに、泣いた。
感動して、嬉しくて、泣いた。
今まで生きてきた自分は、未熟で、変わってて、人と違うところが多いし、
みんなに馴染めなかった自分も、
人と興味の範疇が違うことも、
ずっとずっと自分をダメって責めていたように思う。
だけど今日、その自分の人生全て丸ごと、褒められた気がした。
丸ごと受け入れられた気がした。
それくらい嬉しくて、感謝の気持ちで泣いた。
私は毛布ぬくぬく至福の世界に留まる、浸ると決めて、
数日それを守っていただけ。
だけど、そうしていると、エゴの声が別の人の声に聞こえて、
自分から発せられていると思っていたエゴの声が、
まるで別の、全く関係ない外野の声に聞こえて、
無視するというより、根本的に自分に関係ないんだと心底思えるようになった。
ずっとずっと、ピンクの毛布にくるまれているような安心感の中に居続けた。
ただ、それだけ。
そして、現実に起こることはすべて、
自分が体験したいことが現実化しているんだ、と思うようになった。
そうしたら、起こることすべてが、
人が発する言葉全てが、
自分がただ、体験したくて創ったんだと、
そうやって、やっと認めることができるようになった。
だからね、
元カレさんの言葉が良い意味でも悪い意味でも、どちらでもいいの。
そのどちらであっても、ただ自分が体験してみたかっただけだから。
それ以上の意味なんて、ないんだってこと。
だから、執着しなかった。
「好き」と言えて、
「ありがとう」って言えて、言われて、
こんなやり取りを体験できて、幸せだと思った。
「感受性が豊かで良い」と言ってくれた人にも、感謝したの。
だって、これはきっとね、私がずっと体験したかったことだ。
だって、私はずっと、こんな風に、
ありのままの自分を、丸ごと肯定してもらいたかったから。
そんな体験ができたことに、心から感謝したい。
体験が幸せか不幸せか。
これは重要に思えるけど、重要じゃない。
ただ、自分が体験したいこと(信念)を、
私が私に体験させてあげているんだ。
それってもう、愛でしかないんだよね。
愛とか、そういうの、
ほんと白々しいと思ってた。
なのに今日、心のど真ん中を貫かれるように、感謝が溢れた。
幸せで泣ける、こんな日が来るとは。
現実的に幸せかどうか分からないものにまで、幸せを感じるなんて。
ほんと信じられないよ。
今日は、どうしてもこのことを記録しておきたかった。
私は本当は、ものすごく愛されているのかもしれない。
初めて、そう思えた。
そしてすごいのは、目の前にある現実の幸・不幸関係なく、
幸せであり続けることは可能だっていうこと。
幸せを選択し続けること、幸せに居続けること、幸せな解釈を採用することは、可能なんだってこと。
これを体験できたから、
これからはもっと既にある世界を信用していけると思う。
とにかく、ありがとうございます。