〘 元祖1式 〙198-227日目 自愛が最強だと思う話
ブログを書くのに、1ヶ月以上も開いてしまった。
なんでこうなったかって、
もう、そりゃあもう、忙しかったからですね。
何に忙しかったかって、
『自愛』に!
認識の変更後、
時々湧いてくるエゴに、
まだまだ、時々は翻弄されることもありました。
そんな私に訪れた、自愛奨励期間。
認識が変更されて、
変化する世界もある中で、
本当もう、自然に自然に、自愛をするように導かれたんです。
元祖1式を続けていて、
自愛はあえてしなくても大丈夫だと思ってた。
だけど、
大丈夫じゃなかったんです。
それは自愛に本気で取り組んでみて、知りました。
なんだ、まだまだじゃん。
まだまだとどいてないじゃん。
まだまだやることあったのね。
ってなかんじで。
私は私を好きだと思ってた。
好きになれてきていたから、
もう大丈夫。私、自分大好き。
と思ってた。
そして、
私の潜在意識に自然と導かれるように自愛を始めてみたら、
いやいや、どっこい。
私は私をまだ嫌いなところがあったんです。
本当には私のこと、愛してなかったんです。
私は私のこと、「好きになれるところは好き」
であって、
「嫌いなところは嫌い」
だったんです。
お恥ずかしい。
昔の自分は全くといっていいほど、愛せず、認められず、
自分のこと嫌悪するくらい大嫌いだったから、
「そんなに自分のこと嫌でもないかな」レベルで満足してしまっていたんですね。
今回はそんなこんなで、自愛のことについて書きます。
私がまず取り組んだのは、
自分の望むことを全部叶える、ということ。
これは小さな願望を叶えるってことで、
そんなにたいそれたことはしていないです。
自分に「愛しているよ」と言ってみたところで、
自分からの反応は芳しくなく。
白けている様子すら感じられたのです。
っていうか、「愛する」って何よ。
「愛されてる」ってどういうこと?
わかんないよね。
だって私、人生で人に愛された経験も、
本気で人を愛した経験も乏しいんだもの。
だから人生死にそうだったんだからね! プンスカ!
「愛する」または「愛されてる」って、どういうこと?
どんなことが「愛している」ことになるんだろう?
と考えてみたわけです。
そうしたら、なんとなく浮かんだイメージがあって。
大好きな恋人が、
自分のこと「愛してるよ」「大好きだよ」
・・・って言ってくれる。
嬉しいよね、最高!
だけど、
そう言いつつ、鼻くそほじりながらテレビとかスマホ片手に・・・だったら、
え! それ本気!? 本当に私のこと愛してる!?
って思うよね。
「愛してる」って言ってくれる人が、
自分が泣きながら辛かった気持ちを吐露してる時に、
スマホ見ながら「はいはい、大丈夫大丈夫」「大好き大好き」
・・・とか言っていたり、
「なんでそんなに弱いんだよ!」
「っつーか、そんなことで泣くなよ、めんどくせーな」
「そんな話、聞きたくないんだけど」
・・・とか言ってきたりしたら、
果たしてこれは、愛されてると思えるか?
・・・否!!!
で、自分の中にある「愛してる」「愛されてる」と感じられる行動としては、
自分のことに興味を持つ、
自分の気持に寄り添う、話を真剣に聞く、
口だけじゃなく、行動で示して欲しい!!
絶対に私を否定しないで、責めないで欲しい!!
なんならたとえ私が間違っていたとしても、全肯定して欲しい!!
・・・だったのです。
そう。
自愛は自分に「愛してるよ」と口だけで言ってればいいというものじゃないのです。
前述したように、口だけ彼氏は最低なのです。愛してなんかいないのです。
私が感じられる愛情には、行動が伴っていて欲しいのです。
そこで私は、自分からでる要求全部を、叶えることにしたのです。
「愛してる」っていうことを、行動で示すことにしたのです。
朝目覚めたときから、
『もへじちゃん、今どんな気分?』
『もへじちゃん、今朝は何飲みたい?』
『もへじちゃん、今日はどんなお洋服を着たい?』
自分に、自分の気持を言わせました。
で、「ミルクを泡立てたカフェラテを飲みたい」と言われたら、
何がなんでも、それを実行するのです。
朝忙しいし、瞬時に「めんどくせーな」という思考が湧くけど、
大好きなもへじちゃんが言うのだから、
なにがなんでも達成するのです!
「いい匂いのするネイルオイルを塗りたい」と言われたら、
ハンドクリームで代用すれば楽だし早い・・・とか言わずに、
必ず、後になっても、何がなんでも達成するのです!!
「なんか運動して体をスッキリさせたい」と言われたら、
ひえー、めんどくさい!・・・などと言って一蹴せず、
なにがなんでも達成するのです!!
はじめは自分の希望すら言わない私と、
ちょっとしたことでも瞬時に理由をつけて却下する自分、
この両面に気付かされました。
無意識レベルの虐待でいくと、
私は「あ、トイレ行きたい」と思いついても、
間髪入れずに「これが終わってからでいいや」「出かける前でいいや」
とかなんとか効率的で最もそうな理由をつけて、
そんな生理現象すら、自分に我慢させていたことに気付かされました。
自分の願いは本当にちいさなこと。
それですら、自分は瞬殺で却下していたのでした。
で、ものすごく地道に、私が出す要求を、できるだけ素早く叶えるようにして日々が過ぎていきました。
最初は、それを叶えてあげても、なんにも感じないことが多かったのですが、
それを繰り返していくと、
ある時から私から出る要求の数がどんどん増えるようになりました。
もちろん、すぐに自力で達成可能なことばかりです。
でも、どんどん要求してくれる。
それにせっせと応える毎日。毎瞬。
私から出る要求は、こんなの。
・お風呂にはちみつを入れた保湿風呂につかりたい
・マッサージをしてほしい
・爪にアロマの香りのするネイルオイルを塗って欲しい
・今日の朝ごはんは、大事にしてる上等なお皿で食べたい
・(電気ポットじゃなくて)南部鉄やかんで沸かしたお湯でコーヒーを淹れて欲しい
・小さなキズだけど、絆創膏を貼って欲しい
・今、トイレに行きたい
・お昼寝がしたい
・今日のおやつはケーキがいい
・トイレ掃除をしてトイレをきれいにして欲しい
・そこのホコリが気になるからなんとかして欲しい
・今日は香水の香りに包まれて眠りたい
・お部屋でキャンドルを楽しみたい
・ストレッチして欲しい
・断捨離したい
・スタバでゆっくりしたい
・今日は早めに眠りたい
・バイクを洗車して欲しい
・メイク道具をきれいに掃除して欲しい
・はちみつたっぷりのトーストが食べたい
・歯磨きを丁寧にしたい
ね。全然大したことじゃない。
だけど、これらを後回しにしたり、実行してあげなかったり、面倒臭いと思ったりしていたことに気づいたの。
そんな日々を過ごしていると、
ある時から、自分の中にそこはかとない「幸福感」を感じるようになりました。
要求が叶えられる度に、幸せを感じるんです。
自分責めをして、自分にひどい言葉をかけているときも、
すぐにもうひとりの自分がすっとんできて、
「そんなことない」「私は私のこと大事だから、そんなにいじめるのやめて!」
って、かばってくれるようになった。
また、私から私に対する信頼度が上がった。
必ず叶えてくれるから、要求を素直に言えるようになった。
必ず守ってくれるから、そうやって守ってもらえる私は自分のことを「大切な人間なんだ」と思えるようになった。
自分の要求に応え、自分の感情を否定せず、さらに庇って守り、自分を褒める。
そんな自分が育つにつれ、自分は「愛されてる」と思えるようになった。
「あなたは宝物だから」
私の世話を焼いてくれる私が、よく私に言ってくれる言葉。
これが最近では一番のお気に入りで、
この言葉を思う度に、幸せな気分に浸れる。
また、最近では要求を言うだけではなく、
自分のやってみたいこと、楽しんでみたいこと、についても出てくるようになった。
そして、それをいつものように実行する。
私から出たやってみたいこと、楽しみたいことは、こんなの。
・漫画を読みたい
・映画を観に行きたい
・立体刺繍で蝶々を作りたい
・お部屋をDIYしたい
・違う香りのアロマネイルオイルが欲しい
・お部屋を居心地がいいように模様替えしたい
・おうちカフェできるようになりたい
・朝に温かいスープが飲める生活がしたい
・キャンドルナイト楽しい。キャンドル作りの体験教室行きたい
・Yogibo MAXが欲しい
・パンを作れるようになりたい
これらも、なるべく早く実行に移す。
そうしていると、何をやっていても、毎日が楽しいと思うようになった。
私は私を自分で幸せに導けるようになった。
お金を使わなくても、自分を幸せにできることは山程ある。
自分の声をちゃんと拾えるようになると、
自分が何を望んでいるかがちゃんと分かるようになった。
だれかと比べて、だれかに自慢できるための願望は、本当には私を幸せにしない。
私は私の心の底からの要求に応えることで、
自分を幸せにできるんだってことを、体感できた。
・・・書いてみると大したことはしていないです。
だけどね、すごいの。
私は私のことを、本当に宝物と認識していて、
私は「愛されてる」と無理なく思えるようになった。
また、私は毎日、毎瞬を、心地よくいられるようになった。
そうしたら、ビックリなの。
現実に嫌なことが起きても、
全く反応せず、常に「幸福感」を維持できるようになった。
自分が自分を愛して大切にできるようになったら、
現実や他人の言動で「不幸」になることがなくなった。
そして気づいたら、
元祖1式で頑張って止めていた思考が、
そもそも湧かなくなっていて、
止める必要すらなくなったの。
元祖1式が、頑張らなくてもデフォルトでできるようになった。
もし嫌な思考に囚われそうになっても、
もうひとりの私がすっとんできて庇ってくれるか、
そもそも「楽しいこと」「やりたいこと」で忙しいから、
そんな不快な思考に囚われてる暇がないかのどちらか。
結果的に、今、完全に元祖1式が達成され続けている。
自愛は必要ないなんて言っていたけど、
私は本当の意味で私を愛してみて、
自愛の結果感じている世界が、
認識変更後に感じていた世界と同じだと気づいた。
既にある世界と同じ感覚だと、気づいた。
しかもこの境地は、
認識変更後もエゴはやってきて揺らぐことがあったけど、
自愛を経てからは、揺らぐことが全くなくなったから、
私は今、完全に認識変更後の世界に居続けられている、と感じる。
だけど、自分のことを受け入れていて、毎日楽しく過ごすことが幸せすぎて、
願望とかもうどうでもいい気がする。
なんでも叶うと思える。
なんでも叶うだろうからこそ、必死で願う必要もない。
必要な時期がきたら、私の手元に来るんだろう、と思う。
ということで、
私は私の要求に応えることに、忙しい。
苦しい忙しさじゃない。
ワクワクして、楽しくて、幸福感がずっと続いている。
それが幸せすぎて、また要求に応え続ける。
そうして、いちいちネガティブとか考えてる暇ない自分を、今過ごしている。
私の本願であった恋人。
私のこと大好きなんだろうなぁ、という現実を見ている。
だけど、
私は私のことで忙しいから、
恋人にもっと愛されたい!!と思うこともなくなった。
今一番の願いは、
私は私に、一番に愛されてたい!!!
だと思う。
ほんと、毎瞬毎瞬が幸せの絶頂。
達人さんの言っていた「今、幸せになれ」
っていうのが体感できたよ。
だって、気づいたの。
幸せは「なる」もんじゃないの。
幸せは「感じる」ものなんだって。
なにか願望が叶ったって、「感じ」られなかったら意味がないの。
というか、何も変わらない世界で「今」、幸せを感じることが可能だよ、と言いたい。
そして、その「今」感じている幸せが、
幸せな世界を「創造」していることと、イコールで、
世界に「幸せ」な現実が現れることになる。
だから、今すぐ「幸せ」を感じてみてほしい。
感じられないなら、
自分の声を無視しすぎているのかもしれないよ。
自分の要求を、ひとつひとつ丁寧に実行して、
自分への愛を表明できたら、
世界は幸せの絶頂に変わるよ。
「幸せを感じなきゃ!」って無理して必死になるのでなく、
自然と幸せの絶頂にたどり着く。
私だって自分が喜ぶこと、何かわからなかった。
趣味もないし、自分の楽しいことが何かわからなかった。
私はそうなるほどまでに、自分を無視していたんだね。
って、今ならわかる。
もっと自分の声を聞いて欲しい。
自分の声が聞こえたなら、叶えてあげて欲しい。
自分を信用できず、そっぽ向かれているかもしれないけど、
少しずつ、自分は自分に心を開く。
自愛をすすめると、元祖1式はやりやすいよ。
というか、自愛が進むと、勝手に認識変更の世界に行くよ、という話でした。
読んでくれて、ありがとう!
〘 元祖1式 〙185-197日目 現実は無視
今日はびっくりしたことがあった。
私の願望がもうひとつ、叶った。
車が手に入ることになった。
思っても見ないところから。
私の欲しかった車種ではなかったけど、
願望の通り
『初期費用無し。車体もタダで、車をくれ』
これがなんと、達成された。
車がもらえた。
しかも、思ってもみなかったプラスアルファは、
ランニングコストも全部、相手が負担してくれることになったこと。
なんだか、ただただあっけに取られています。
だって、確かに『あ~、車欲しい。誰か車買ってくれないかな?』
って、ちょっと前につぶやいていたから。
だからってくれる相手も当然いないから、
まぁ、欲しいけど、いいか。
って放っておいたことだったから。
こんなルートで車がくるなんて、本当に思っていなかった。
思い返せば、
ずっと欲しいとは思っていた。
欲しいものは?
って聞かれたら、「車」って答えてたかもしれないくらい、
ちゃんとほしかった。
だけど、
どこからどのルートで・・・とかは考えてなかった。
車くれたらいいのになー!
この程度。
欲しいけど、執着していなかったと思う。
いずれ手に入る!
と確信もしてなかった。
これがいわゆる ” 手放し ” ってやつだったのかな?
でも、そう。
そんなこんなもゴチャゴチャ考えてなかったら、来た。
最近は、自分の認識について考えていた。
考えていて、考えなくなってきてた。
どういうことを考えていたかって、
私の身に降りかかる、
『いやだな』って出来事。
これはなんだろう・・・って。
認識の変更って、なんだろう・・・って、改めて。
結論としては、
認識の変更は、全てが「ある」と認識することでもあり、
全ての認識が「ない」と認識することなのかもってことだった。
眠っていると、認識ができなくなる。
何に対しても、苦しさも喜びも感じない。
というか、何が起きてても何も認識できてない。
眠っている間に雨が降っていても、
眠っている間はそれを認識できない。
確認できない。
あるかどうかも、考えない。
もちろん、ない!と騒ぐこともできない。
そうして目が覚めると、
地面が濡れてて、もしくは雨が降っていて、
『雨が降ってる』と認識する。
目が覚める。
『今日も嫌な一日が始まる』
『憂鬱だなぁ。また仕事に行かなきゃいけない』
ほんのさっきまで、
何も知らないし、認識することもしてなかったのに、
目が覚めた瞬間に、
なんらかの認識が始まっている。
目が覚めるまでは、なんにもなかったのに。
目が覚めた瞬間から、「ある」世界が始まっている。
そうして、ビックリしたの。
認識していないときは、なかったもの。
認識し始めたら、そこに「あった」の。
それが自分にとって「いいもの」「悪いもの」どちらにしても、
自分がそれを認識した瞬間に、「ある」んだよね。
いいものも、悪いものも、「ある」んだよね。
で、本当の「ない」ってなんだろうと思ったの。
認識がないときには、全て「ない」
認識があるときには、全て「ある」の。
上手く表現できないけど、
本当の意味での「ない」は存在しないんじゃないか、って話。
で、自分が目覚めて認識できた瞬間に、
目の前に「ある」「ある」「ある」が広がっていく。
欲しかった◯◯も。
絶対にいらない◯◯も。
平等に、「ある」。
じゃあ、ただそこに「ある」だけのものに、
「良い」だの「悪い」だのつけてるのは誰? ってことだよ。
それって、 ” 自分 ” なんじゃないのか、ってこと。
本当は、ただ「ある」のに、
自分のものじゃないから「悪い」
自分のもの、もしくは自分に好意的(に感じる)だから「良い」
そうやってレッテルを貼っていく。
まず「ある」。そこにそれが「良い」の「悪い」のってジャッジをつける。
その「ある」の認識の後につく、レッテルって一体なんなの?
って思ったの。
ただただ目が覚めました。
そこに世界が広がっていました。
・・・以上。
これが本来の認識なんじゃないかな、と思った。
それ以降のことは、全部エゴ(自我)がジャッジしてつけた評価であって、
それは認識とは言わないのじゃないかな。
しかもその評価、それ本当?
良いように、思ってるその評価。
悪いように思っている、その評価。
それ、本当?
誰が見ても誰が聞いても、本当?
その寂しいのって、あなただけがそう思ってるんじゃない?
その惨めさって、あなただけがそう思っているんじゃない?
他人のどの人が聞いても、体験しても、同じだなんて、言い切れる?
私は言い切れないと思う。
私の評価は、私だけのものであって、
多分、他の誰とも同じなんてありえない。
だとしたら、その評価、絶対的なものとして通用するのは、
自分の中でだけだよね。
別に他人からみてどうかを気にしなさい、って話じゃないよ。
世界の存在しているものたちは、
ホントはなんの評価も持っていなくて、
ただ、そこに「ある」だけ。
存在するだけ。
それだけ。
それが、それ以上でも以下でもなくて、
そこにあります。以上。
・・・みたいなことであって、
そこに意味をもたせたり、
そこに何の意味ももたせなかったり、
そうしているのって、” 自分 ” なんじゃないの? ってこと。
私は何に苦しんでいたんだろうね。
現象はただ、そこに「ある」だけなんだろうに、
それが苦しみの種だったり、喜びの種だったりするの。
全部、自分がそう演出しているだけだよね。
だとしたらさ、
そこに「ある」だけのことに、
苦しい評価をつける必要がどこにあるんだろう。
私は元々、めちゃくちゃ自由を許されてたんじゃないの?
私が「ある」以降に下しているジャッジは、
その ” 認識 ” チックなそれは、
全部幻なんじゃないの?
本当は全部「あって」、
本当はすべて自動的に上手くいっている、もしくは存在していて、
私の下しているジャッジはただのエゴ目線の幻なんじゃないの。
って、思った。
同じ幻ならさ、
私の世界は大笑いでミラクルが起きる世界だ、と認定しても構わない。
起きている現実が、エゴ目線で「最悪」でも、
「最高に楽しくて、今上手くいきまくっているところ!」と認定しても、構わない。
別に認識なんてどう持っててもいいのかもしれないの。
だったら、「最高だ」と認定してしまおう。
そう思った。
目が覚めた瞬間から、最高な世界が認識されてる。
「ある」は、世界を見られている時点で確実に「ある」から、
その「ある」世界に対する評価を、最高と決めてしまう。
もうそれでいいじゃん。
目が覚めた瞬間から、自分にしか見えない世界が広がっている。
それを最高だと決めたところで、なんも不幸にならないじゃん。
「そんなことない!最高なはずない!だってこんなに不幸だもん!」
ってエゴが騒ぐのかもしれないけど、
それすら別にいいやん。
だって「ある」は確定してしまってる。
目の前に世界が広がっているなら、それだけは間違いない事実。
(生きている限り、必ず目の前に世界は現れているはず。例外はいないよね)
目が覚めて、すべて自分の認識がはじまる。
目の前に「ない」ものはないから、「ある」しかない。
ないものは存在しない。
全て私の世界の中に「ある」から、欲しいと思う。
私の頭の中=現実。
だから、欲しいと思った瞬間に、ある。
あるから安心していいねん。
目の前に世界が広がっているなら、
頭の中(自分の内側)はちゃんと現実化している。
好ましいものも、好ましくないものも、
平等に存在してる。
存在していることは平等。
要するに、というか、元々全部あるの。
ある世界しかないの。
ジャッジは全部ウソ。
気にしなくていい。
気になっても、幻だからどうしようもない。
気にする必要ないし、気になるものがあっても、別にいい。
ジャッジが無駄で幻で嘘だ、ってことをわかっていたら、
世界で傷ついても、苦しんでても、全然構わない。
自分がどんなジャッジをして、どんなに苦しんでいても、
願望は叶うよ。
だって、もう叶っているもん。
目が覚めた瞬間、もう叶っているを体験している。
それに気が付かないだけ。
納得がいかないだけ。
良いも悪いも、全部包括して存在している世界。
これが全部全部、願望実現している世界なんだよ。
全部叶っているよ。
だけど、ジャッジして一部だけしか受け取らないから、
わけが分からなくなっていく。
全部、大成功だよ。
全部、実現しているよ。
結局は、全部叶っているのに、認めていないだけ。
そして、全部叶っている世界の中で、
どれをチョイスして楽しむか、味わうか、慈しむか。
ほんとそれだけなんだな、と思う。
そんなこんなで、
私はもう既に実現しまくっている世界の中で、
自分が「好き」と思うものを楽しむようにしている。
自分が「嫌い」と思うものは、存在を消そうと躍起になるんじゃなく、
別にそっとして放っておく。
そして、「好き」「楽しい!」と思うものだけ思いっきり味わってる。
それだけ。
今までは、「嫌い」なものをこの世界からなくそう、なくそうと必死になってたの。
だから苦しかった。
だって、もう「ある」ものを消すなんて無理だから。
だから、消そうとせずに、無視して、
世界に存在するものの中から、「好き」だけを喜んで感謝して楽しんでる。
そして、世界にはそんなものがたくさんある、と信じている。
ただ、最近はそれだけ。
現実は無視。
潜在意識のなかの基本。
これって、全部願望実現しているなかから、「喜び」だけを選択していく、
そういうことなんだな、と思った今日このごろでした。
〘 元祖1式 〙177-184日目 絶望と希望
絶望ってなんでこんなに深いんだろうね。
絶望するとき、なんでこんなに深くえぐられるんだろうね。
絶望って、なんでやってくるんだろう。
やっぱり「期待」するときなんだろうか。
「期待」しちゃうよね。
絶望しているときって、
実は自分が知っている絶望の状態じゃないのかもしれないな。
絶望が湧いてきているときって、
思っていたのと違ったとき。
思っているようにならないとき。
誰かに傷つけられたと思ったとき。
何をしても無駄だと思うとき。
よーく、よーく、観察してみたら、
そこにはちゃんと「期待」が、あるんだね。
「期待」しているものがあるから、思ってたのと違うと思う。
「期待」しているものがあるから、思うようにかないと思う。
「期待」しているものがあるから、誰かの違った反応に傷つく。
「期待」しているものがあるから、そこにたどり着けなくてもうだめだと思う。
「期待」が悪いという話がしたいんじゃない。
人間って、やっぱり「期待」という名の、希望的ストーリーを、潜在的にもっているんだなぁ、って思って。
そう。
希望があるから裏切られ、傷つけられ、その幸せと比較して絶望する。
だから、希望を持つのが悪い・・・じゃないの。
なんかすごいよなぁ、って思って。
だってさ、どんなに「絶望してるんだ私は!」って人の中にも、
燦然と輝く希望があるんだってことだよ。
これって、すごくない?
よく考えてみると、
この希望ってなんなの?
すごいよ、これ。
誰の中にも、誰かに命令されたわけでも義務でもないのに、
自然に希望ってものがあるってことだよ。
潜在的に、誰ももれなく希望をもってるってことだよ。
誰が教えてくれたの?
誰が希望の持ち方を教えてくれたの?
なんか不思議でしょうがないんだけど。
いや、わかるんですよ。
この希望とやらがあるから、絶望に追い込まれるんだー!!ってこと。
だけど、
私が思ったのはね、
誰の中にも、美しい希望のある光景が、存在しているってことなの。
それが、すごいよね、って話。
潜在意識界隈で言われる絶対的法則。
自分の内側=現実
ね。
これは本当なの。
それは最近私が思う、本当に本当だ!って事実で。
でもみんな「既にある世界」がみえないって言う。
認識を変えるのは難しいって言う。
だけど、思ったの。
絶望を感じられるってことは、
希望が自分の中にちゃんと存在しているってことで。
だって比較対象がなければ、絶望しようがないから。
だから、絶望してる=希望をもってる、ってイコールです。
でね、
絶望の方をちょっと置いといてみたら、
とにかく、事実として、
自分の中にちゃんと「希望」が存在しているってこと。
で、潜在意識の法則。
自分の内側=現実
これです。
希望があるのだから、
放っておいたら希望=現実、のはずなの。
これがいわゆる、「既にある世界」だよ。
じゃあ絶望の方は何? どうすりゃいいの?
・・・ってことだけど、
結論は、「どーもしなくていい」ってことになるんだ。
今まで書いたことで、気づいた人もいるんじゃないかと思うんだけど、
絶望はみんなのなかに真実みたいに迫ってきて、
振り払っても振り払っても、消えない暗黒のように信じているけど、
というか、この絶望の方が本物って思っているかもしれないけど、
違うでしょ? ・・・ってことなの。
そもそも順番が違う。
「希望」があるから、それと比較して「絶望」を感じられる。
ってことは、
「希望」が先で「絶望」が後ってことだよ。
後から生まれるのが「絶望」なの。
「希望」を持つから「絶望」するんだ!
「希望」を持たなきゃ苦しくないんだ!
って言う人もいるけど、
だけど違うよね。
消せるのはどっち?
って考えたらさ、
消せるのは「絶望」の方でしょう?
だって「希望」は勝手に湧いてくるもので、もう潜在的に持っているんだもん。
消せようがないでしょう?
だけど、「絶望」の方はさ、
「希望」を比較対象にして、後から発生させたものなんだから、消すことも可能でしょう?
何が言いたいんだって、
私達は元々、希望を潜在的に持っていて、放っておけば勝手にキラキラ輝いている存在だってことです。
希望は、消せないってことです。
放っておいたら、自分の内側=現実の法則の通り、
勝手にキラキラ輝いた世界に住めるはずだ、ってことです。
絶望って、本当に辛いよね。
このブログを始めた当初の私は、
絶望の淵にいて、
「もう消えたい」「頑張れない」って思いつめてた。
だから、絶望の苦しさは本当によくわかる。
でも、今、それから少し離れられるようにはなって、
思うのが、
絶望って、存在しないんです。
ってことだ。
絶望を感じていて、苦しい渦中にいるときには、信じられなかった。
この絶望は自動的に湧いてきて、自分の意志では止められないんだ、って信じてた。
とういか、体感的に本当にそう思ってた。
だけど、違ったの。
この絶望、
考えないようにしたり、
忘れてみたり、
嘘だと信じてみたり、
他のもので気をそらせて離れてみたり、
別の何かを本気で信じてみたり、
そうすると、消えるの。
そう。
この「絶望」は、無視しても、何も問題が起きない。
ってことを知った。
今の私は、ただそれだけだ。
「絶望」に取り組まない。
別にそれを塗り替えるための「希望」のことを四六時中考えてなくたっていい。
ただただ、「絶望」から離れる。
たったこれだけ。
でも、最初はさっき言った通り、
この「絶望」は自動的で自分の意思では止められない、、
って本気で本気で信じているから
「無理だよ!」って思うかも知れない。
だけど、断言する。
この「絶望」ね、
忘れられるよ。
消すことができるよ。
自分で止めることができる。
それもちゃんと自分の意思で。
苦しいのもわかる。
無理だ・・・って再び絶望に飲まれるかもしれない。
何回飲まれてもいいんだ。
ただやれることは、
自分の意思で、この「絶望」を捨てること。
「いつか絶望が去ってくれるかも」って思っても、
絶望は去ってくれない。
自分の意思で動いた時にだけ、
絶望と縁を切ることができる。
踏ん張るのはここだけ。
「絶望」と縁が薄くなってきたら、
なんで今まで「絶望」が本物だと思ってたんだろ、って気づく時が来る。
「絶望」は嘘だよ。
自動的に発生させているのは、自分。
だから、自分でしか止められない。
勝手に止まってくれる「いつか」は存在しない。
その反面、
「希望」は止められない。
「希望」は自動的に発生してる。
これが神の領域なのかどうかはわからない。
だけど、「希望」だけはどうあがいても捨てることができないようになってる。
だから、「希望」の方は安心して放っておいて、
頑張るのは「絶望」と縁を切る努力をすることだけ。
「絶望」は嘘。
「絶望」は幻。
「絶望」は存在しない。
自分がその存在を許可したときにだけ、存在できる。
「絶望」にまみれている時に、辛い話なのかもしれない。
だけど、「絶望」は捨てられる。これは絶対。
「絶望」を信じている度合いが深いほど、
信じられないし、苦しく感じるかも知れない。
だけど、勇気を持って「絶望」を捨ててみてね。
「絶望」を捨てるとき、
意外と不安を感じるかもよ。
「絶望」について取り組まないことに、恐怖を感じるかもよ。
そうしたら気付ける。
「絶望」を抱えていたかったのは、
「絶望」でいることに安心していたのは、
自分の意思だったってことに。
今日は、大事なお友達が落ち込んでいたことについて思いを巡らせていたら、
こんな「絶望」と「希望」の話が降ってきました。
本当に、みんなが幸せになればいいと思う。
いや、誰の中にも「希望」があるから、
それが自動的に世界に反映されるようになってほしい。
でもそれには、=現実を邪魔している、
「絶望」と手を切らなきゃいけないね。自分の意思で!
〘 元祖1式 〙165-176日目 自分を大切にしてほしい
最近は、
ブログに書くこともなくなるくらい、
穏やかな日々が続いている。
最近は、穏やかにゆっくり、
自己変容が起きていっているように思う。
人間関係は私に、新たな信念の変化をもたらした。
仕事を辞めたかった私と、
上手くいかない転職活動。
(ぼんやりやってるからなんだけど^^;)
例の彼女に私をわざと傷つけるための言葉をかけられても、
何も行動できないわたし。
・・・ってな感じで、
転職を考えてはみるけど、しっくりこないし。
なんだろう、この感じ。
と、思ってた。
彼女が言ったの。
「(攻撃される)弱い方(あなた)が悪いんです。」って。
で、私は「そうなのか」と思って、
その言葉をたいそう大事に抱えて、
日々を過ごしていたの。
強くなれない自分。
(転職して)逃げるしか思いつかない自分。
で、今の結論。
どうでもいいわ。笑
私ね、めっちゃ悩んでたのよ。
「弱くて反撃できない私が悪いんだ」=自分が変わって強くならなきゃ!
「私が悪いなら、転職しても、どこに行っても同じ」=逃げることもできない!
どっちもできない私、どうすりゃいいの!? ・・・ってね。笑
で、この結論ですよ。
どうでもいいわ。
みなさまは、こんなことではつまずいていないかな?
私だけかもしれないけど。
で、ほんとどうでもよくなったの。
投げやりになったのではなくて。
こんな小さなことに悩んでおきながら、
私の日々は穏やかに過ぎていっていたのです。
だけど、私は頑なにこの問題に対して思考してしまってた。
その思考が止まらないんだよね。
で、最近だんだんしんどくなってきた。
で、気づいたのです。
思考が止まらないとき。
それは他人に対して怒っているときではなく、
自分に対して自分責めをしているときだ、と。
なんてことだ!
と思ったの。
一見、思い通りに行かない現実に抵抗しているように見える。
そうかもしれないし、そうなんだけど。
だけど、違うんだな。
私は、現実はさておき、
自分を責めてることが辛くて、悩んでいたのね。
それに気づいたら、
さっきから何度も言っている、
どうでもいいわ。
って思った。これに辿り着いた。
なんかさ。
現実に固執しているとき、
思考が止まらないとき、
その奥の奥の奥には、
自分嫌い。
が隠れているんじゃないかという話です。
変われない自分。
現実を変えられない自分。
こんな現実の原因になっている自分。
すごい人間じゃない自分。
全部全部全部、本当は、
自分を原因にして苦しんでいるんじゃないんですかね。
現実には、
今の自分は全く関係ない。
自分の潜在意識がすべて反映されている世界だとか言われるから、
全部自分のせいのようにとられるかもしれない。
でも、そういう意味じゃないの。
潜在意識の中に、
『こういう世界がある』っていう認識があるだけ。
私の場合でいうと、
私はダメだから、それを指摘されちゃうかも!!
ってか、世界ってそういう場所でしょ!!?
・・・みたいな。
で、そういう認識があるだけであって、
それって、私=ダメなやつ
っていう事実ではないことに、気が付かなきゃいけないのですね。
世界がそう振る舞った。
イコール、だから私はダメ。
ではないんですね。
私はダメ=それを指摘されちゃう
これを立証するために、
世界がそう振る舞ってきたから、
イコールの「私はダメ」が成り立つわけじゃないのです。
それは真実ではない。
つまり、私の潜在意識は、
私はダメって思いたいから、
そういう世界が必要ってことです。
だからね。
世界は私の認識を立証するために振る舞うので、
世界がそう振る舞ったからと言って、
それが真実ではないのです。
とても流動的なのですね、世界は。
ありがた迷惑なことに、
私の認識ありきで、
世界はどんどん振る舞い方を変えてくれるんですね。
私は「私をダメだと思ってた」ってことがわかっただけで、
「私はダメ」が本当のことではない、ってことです。
で、いろいろいろいろ思考しまくった私は、
やっぱり現実は本当じゃないのだと再度思い出して、
もうどうでもええわ。
ってことを、ちゃんと思い出せたわけです。
そして、思ったの。
本当に、本当に、
すべての悪は、
自分を責める心なんじゃないのかと。
たぶん潜在意識(本当の自分)は、
自分のことダメとか思ってないのよ。
そんでもって、
「自分はダメ」とか思われるのが、
心底勘弁ならないのだと思うのです。
だから、
本当にこの世界の根源である自分を疑う行為や、
自分を蔑んだり、貶める行為が、
腸煮えくり返るほど許せないんじゃないかって。
自分を責めているときって、
体の良い「だって◯◯だから」とか、「だって私が◯◯しちゃったから」とかなんとか理由が出てくると思うんです。
だけど、
これが全くの嘘で、
自分が間違うことなどないし、
自分が変わらなければならないこともないし、
自分の存在を疑う行為は、
どんなありそうな理由をつけようが、なんと言おうが、
全くの無意味であり、
本当に無価値な行為なんだと思うのです。
だから、
こんな行為をしてしまったときには、
心に大きな大きな警笛が鳴り響くんだと思うのです。
「オイ!コラ!今すぐやめろ!!!」
ってね。
自分で、自分の危機を、みんなちゃんとわかってるんじゃないかと思う今日このごろ。
思考が止まらない、
苦しい思いが止まらない、
ってとき、
ちょっと自分を責める心が湧いてないか、
感じてみるといいかもしれません。
ちなみに、
例の彼女の性格の悪さや、不安定な機嫌は相変わらずだけど、
私が「え、私悪くない」
「っつーか、これについて考えること無意味!」って気づいてから、
自然と機嫌のいい日が続いていて、
当たられることなく過ごす日々が続いております。
私は変わる必要なかったんです。
私が変わらなくても、世界のほうが変わればいいから。
だから、もし苦しんでいる人がいたら、
認識の変更以前に、
自分責めをすぐにやめてください。
うまくやれないよ~:;
って人は、ひとつの手として、
ノートや紙に、書きなぐるのをオススメします。
これ、素直にやる人と、そうでない人に分かれるんだけど、
冗談抜きで、書いてみるとすごいことが起きるからオススメです。
ノートについては、また時間をとって書いてみたいな、と思います。
心の友、ノート・・・
私はノートが大好きです。
認識の変更以来、書かなくなっていたけど、
久しぶりに思考に飲まれたので、またお世話になりました。
最近、みんながみんな、幸せになってほしいと思うようになりました。
恥ずかしながら、毎日大切な人のために、
なんとなく幸せを祈ったりするようにもなりました。
他人の幸せなんて、初めて祈ったかもしれない。
さもしい心の持ち主ですみません。
でも、そんな私も、祈るくらいに穏やかになりました。
今辛い人は、
他人なんてどうでもいいから、
まずは自分の幸せを!
幸せの前に、小さくても自分責めるのだけやめてください!
自分の心が荒れたり、思考が止まらないときは、
必ずと言っていいほど、自分を責めているんだと気づいてください。
そうみえなくても、そういうときは絶対責めてると、私は思ってます。
なんか押し付けがましい文章になりました。
でも、世界で一番の罪は、自分を責めることだ!
って、今は本当にそう思っています。
誰かを責めたくなったときも、
必ずその奥で、自分を責めてるんだよ。
もう自分を大切にしてほしい。
そう願っております。
では、また!
〘 元祖1式 〙146-164日目 「邪気」という考え方と感謝
元祖1式のやり方は、沢山ある。
と、最近思う。
相変わらず読書をよくするし、
ネットから情報を得ることも沢山ある。
ネット関係の達人さんのまとめは、
もう読みすぎて、目新しい気づきなどはなくなった。
だけど、それ以外の、
潜在意識の関係ない本や情報を眺めていて、
ハッ!!
っと気づかされることが増えてきた。
潜在意識と仲良くなるには、
自分をよく知るしか道がないように思う。
だって、
この目の前に展開されている世界こそが、
全て「自分」の表現だからね。
現実を変えたくて仕方ないとき。
現実に翻弄されて苦しいとき。
現実に喜びを与えてもらったとき。
現実が穏やかで何にもないとき。
全てが、元から自分が用意したものだって、
そう感じる時がくる。
そうしたら、
『どうしたらいい?』
の疑問は、本来おかしいのだと気づく。
「どうもしなくていい」
が、答えのように思う。
復縁を願っていた、本願として握りしめていた私。
今でも重要なことは変わらないけど、
私を大切にしてくれる彼や、
私の思うようにマメに連絡をくれるようになった彼や、
時々思い通りにいかない、と思わされる彼。
それもこれも全部、私の思い通りなのだと思う。
恋をしていると、
どうしてこんなにも思い通りにいかせたいと思うのかな。
思い通りに会えないと分かった時、
『まぁいいや。きっと思い通りになるだろうし』
と瞬時に手放している自分がいる。
そうすると、
願っていた以上の条件で、会えることが決まったりする。
『なんでこうなるの!』
と思うことがあっても、
それを瞬時に
『まぁいいや。思い通り以上のことになって返ってくる』
と思えたことについては、
本当にその通りに、
自分が創造して願っていた以上の条件をつれて返ってくる。
面白いくらいに、例外なく、そうなる。
で、元祖1式を頑張っているとき、
思考を止めることに苦労すると思う。
でね、
最近思うのよ。
思考を止めるとは、
良い気分でいる、ということとイコールなんじゃないかって。
最近読んだ情報で、
「邪気」
という単語に出会った。
スピリチュアルではよく使われる単語なんだそうな。
でもこれ、なんかわかる!と思った。
なんとなく、『この人、幸せそうに見えないな』(ニコニコ笑ってても幸薄そう・・・)って感じること、ない?
『なんかこの人、必死だな』とか、
『なんか嫌な感じだな、この人』
って感じること、ありますよね。
要するに、この『なんか重い感じ』っていうのが、
「邪気」が出ているときなんだそうな。
で、この邪気は何で出てくるかというと、
自分にとって不快なことを考えているときだったり、
他人のことを羨んで、よくないことを考えている時だったり、
自分の人生を憂いているときなんかに、溜まって、
溜まりすぎるとあふれ出てくるんだそうな。
「邪気」を感じると、とても疲れるんだって。
分かる気がする。
おも~い空気や、攻撃的な空気を醸し出している人と一緒にいると、
ものすごく不快だったり、疲れたりするもんね。
でね、
この「邪気」はもちろん、自分からも発生するわけです。
私、『なるほど!』と思ったの。
なにがなるほどかって、
元祖1式で必死に思考を止めていた頃の自分って、
完全にこの「邪気」がバンバン自分の中に溜まっていっていたときだったもんね。
自分の人生を憂いて、
他人を羨んで、
なんでもかんでも渇望して、
叶わなくて恨んで。
で、最近ね、
この邪気を自分から出さない人になりたい。
って思うようになったの。
単純に、そう思った。
軽やかに楽しく生きていきたいな、って。
自分の中に邪気がポン、ポンッて生まれてくることをイメージして、
それが発生したら、それをすぐに止めるの。
『わぁ、今、邪気発生装置になってたわ』
ってね。
それを続けていたら、
何に関しても深く考え込むことができなくなって、
何に関しても渇望することができなくなった。
だって、何かについて強く握りしめてたり考えてたら、
「邪気」がボコボコ生まれてくる状態にしか、ならなかったから。
そうしたらね、
全部忘れることしか、対処法がなかったの。
邪気だ!って気づいた瞬間から、
もうその原因になることについて、
考えることをやめることでしか、
モヤモヤ気分を発生させないための方法がなかったの。
さて。
面白いなぁ、って思った。
宗教みたいに「邪気」「邪気」書いてしまったけど、
結局これって、
元祖1式の「思考停止」そのものだって気づいた。
なぁんだ。
思考停止の方法なんて、
考え方なんて、
たくさんあるのね。
やり方も、イメージも、なんでもよくって、
ポイントはふたつだけ。
①嫌なことを考えるのやめる。(方法は本当に何でもいい。瞬時に切り替えられればなんでも)
②明るく過ごす(楽しくなる、無思考、好きなことで気を紛らわす、本当になんでもいい)
たったこの二つだけ。
これをするのが難しいんじゃん!
って思うのかもしれないけど、
やるべきことは本当にこれだけ。
正しいやり方なんて、本当はないのかもしれない。
上記二つの条件を満たせるなら、
やり方は何でもいい。
元祖1式をやり始めた約5ヶ月前。
元祖1さんのアファメーションを参考にして、
思考停止をすごく頑張ってた。
それでも嫌な思考が止まらなくて、半泣きで頑張ってた。
そして今。
私が抱えていた嫌な思考って、
本当は気を逸らせれば一瞬で消える、
偽物だったのかと思う。
今は、本当に瞬間に消える。
それについて1%も考えない、ってことができるようになった。
今思えば、私はそんな嫌な思考でも、
手放すのが怖かったんだな。
それについて、
じっくり十分に考えて、
考えても仕方ないのに考えて、
落ち込むくらい、気分を害するくらい、深く深く掘り下げて考えて、
そうすることで、安心してたんだと思う。
現在は、
「思考」だとか「邪気」だとか、ほんとなんでもいい。
瞬間に考えなくて手放してしまっても、
何も起こらない。
自分が思ってた『ちゃんと考えなきゃ』は、存在しない。
そう知った。
こんなに何も考えず手放してしまっても、
本当に困ったことにはならないのに、
なぜに私はあんなにも、
考えても仕方ないことを、深く考えつくしていたのか。
思慮深いことが正しくて、
何も考えないことは悪だと、そう信じていたんだろうね。
あと、あんなに思考停止しても止まらないと信じてた思考が、
今は湧いた瞬間に『あー、雲のカタチ、綺麗~』ってな感じで他のことに気を逸らすと、
一瞬で消えてなくなる。
あれ、何に真剣に悩もうとしてたんだっけ?
それくらいの軽さ。
で、消えてしまった後、別にどーでもよかったことなんだと気づかされる。
あんなに大事に抱えていたのに。
あんなに真剣に悩んでいたのに。
本当は全部、考えなくてもいいことだったんだね。
ちゃんと取り組まないと、大変なことになる!
なんて、エゴの見せた嘘だった。
簡単に手放してしまっても、
なんにも問題がない。
むしろ、ぎゅっと握りしめて考えつくすほど、
上手くいかない。
さて。
「邪気」とか書いたから宗教かと思われたかもしれないけど、
そういうことではなくて、
どんな捉え方でも、どんなやり方でも構わないから、
自分のしっくりくる方法で、
①嫌なことはすぐ忘れる、②明るく過ごす、
これをやっていればいいよ。
嫌なことが忘れられないのは、すぐに手放すことができないのは、
自分が好んで握りしめているのかもしれない、ってこと、
本気で考えてみるといいかもしれません。
私も今現在、
純粋に元祖1式の方法をとっていたり、
「邪気」が発生した!と面白おかしく手放してみたりしながら、
のんびり穏やかに過ごしています。
そして最近、
『なんて世界は美しいのか・・・』
と感動することが増えすぎて大変!
母に感謝したり、
子どもに感謝したり、
職場に感謝したり、
スマホやPCのある環境に感謝したり、
多くはないけど困っていないお金に感謝したり、
水道から出る水に感謝したり、
ゆっくりつかるお風呂に感動したり、
楽しいことをして感謝したり、
今は私の世界にある何もかもが、愛しいような、ありがたいような気分です。
全部を楽しめる自分でいたいな、と、
思うようになった今日この頃。
いつも気に掛けて大事にしてくれる、恋人にも感謝してる。
そしてそれを創造した、自分がここにいるんですよね。
すごいなぁ、自分。
よーく感じてみたら、ありがたいものばかり。
そういうことに気づけるようになったことが、
今の一番の恩恵かなぁ。
〘 元祖1式 〙127-145日目 毎日がラクで楽しくなった
最近はずっと、
『何も考えない、何も考えない、何も考えない・・・』
と常に呟いている。
何があっても、何が起こっても。
最近はもう、とても傷つくことも、
最悪な出来事も、
ショックを受ける出来事も、
何も起こらなくなっていて、
ほんとに穏やかな日常。
何にもない。
それと同時に、
何かを願うことも、なくなっている。
以前は日常の営みとして、
何かを強く願ったり、求めたりすることが常だったし、
それが普通と思っていたし、
当たり前だし、何も違和感がなかった。
前回のブログで、「認識が変更した」と書いた。
でもそれ以降、なんというか、それを意識して暮らしてもいない。
最初の数日はそれに伴う高揚感みたいなのがあった気がするけど、
今は日常でそれを全く意識していない。
良いのか悪いのか、わからないけど。
その代わり、
何かを強く願う気持ちが湧いてこなくなったし、
ただ起きてくる出来事を、淡々と味わっているような、
大きく心が揺れることもないし、
疲れることもないし、
昔の自分が見たら『なんてつまんない日常!』
って言われそうな日常を過ごしている。
それで、何も叶っていない日常なのかというと、
そういうことではないと思う。
叶ったり、思った以上の実現化がきても、
心がそんなに反応しない、というだけ。
大喜びして小躍りして、人に話したい!!
っていう強い高揚感がないだけだ。
ブログを書いていない間にあったこと。
恋人が宮崎旅行に連れて行ってくれた。
ひとりで旅行しようかと計画していたら、
一緒に行ってくれた。
旅費や滞在費など全部払ってくれて、
自分の行きたかったスポットは全部回れた。
行きたかった高千穂峡に行けた! これはほんと嬉しい! わーい!
旅行中は、ずっと手をつないで過ごした。
そして、これはなぜだか分からないけど、
旅行から帰ってきてから、彼の中の何かがスパークしたのか、
ものすごく、もへじちゃん好き好き度がアップしている。
連絡が朝・昼・晩・・・と増えてて、
ハートマークやハート入りスタンプが激増中・・・。
ほんと何でかさっぱり分からん。
最近は『彼にもっと愛されたい!』とすら思っていない。
私は特に何もしていない。
好かれようと努力もしない。
旅行も、ものすごく楽しんだだけで、
飛行機も、ホテルも、食事も、おやつも、お土産も、神社のお守りも、駐車場も、貸しボートも、全部全部恋人に払わせてしまったし、ほんと楽しんだだけ。
いやぁ、楽しかった!
他には、お仕事のこと。
転職活動をしたけど、
内定をもらった時点でなんだかしっくりこず、辞退した。
で、元の職場で頑張るしかなくて、
頑張るのももう嫌で、
何もせず、何も考えず働いている。
そして今は、
何でか分からないけど、仕事がラクに感じるようになって、
実際にラクで、『こんなラクな仕事、あっていいのかしら』と思いながら働いている。
辛かった人間関係は、特に人事異動などないけど気にならず、
それに何も感じず、だから当然、辛くも感じず、働いている。
あんなに体力的にもしんどいと思っていた仕事が、
今は何にも思わない。
こんなにラクな職場、他にないよな、と感じている。
つまりは、私は何もしていないし、何も変わっていないけど、
辛さがなくなって、しんどさもなくなって、良い職場!に勝手に変わった。
プライベートについては、
なんだかやりたい事、やってみたい事がフツフツと湧いてきていて、
それを実際に行動に移してみたりして、なんだか楽しい。
以前は『人生つまらないから、何かやりたい!!』という焦燥感だったのが、
何にもない日常がまず、普通で何も不満も感じない状態になって、
そこからフッと、
『○○展があるのか・・・行ってみよう』と自然と行動したり、
『そういや以前○○したかったことあったな』と調べたら、
意外と身近に教室が見つかったり、月謝が思ってた以上に安かったり、
手の届く状態で現れたりする。
以前は『つまんない!暇だ!もっと面白い何かないのかー!!』と不足感満載だったけど、
なぜか自然と自分が『面白そう』と思うものに誘われたりするようになった。
月末に、川へ鮎つかみ取りに行くんだー♡ 楽しみでしょうがない!笑
こんな感じで、
何かは色々と変化している。
激変!!みたいなものは起きていないけど、
ものすごく満足で、ものすごく不足のない日常が訪れた。
そうそう。
つまりは、願わなくても、何かが寄ってくるというか、
願わなくても、手に入っていくというか。
で、これは私的にガッカリとは違うんだけど、
なんというか、叶って嬉しいもののサイズが、
なんか私にピッタリになっていく、というか。
例えばね、
潜在意識を味方につける!!!と息巻いて始めた頃は、
『万人にモテたい!!』
『フラれた恋人戻ってこい!!』
『山ほどお金が欲しい!!』
『何かで一芸に秀でたい!!』
みたいな願いがあったと思うの。
だけどそれが、今となっては違和感で。
最近思うのです。
私、そんなにお金が欲しいとは、本当は思っていなかったんじゃないか、って。
私、そんなにモテたいと、実は思っていなかったんだな、って。
誰彼構わずモテるのって、なんか自慢できるもんね。
お金を山ほど持っている自分も、なんかすごい人!って思えるし、
一芸に秀でたら有名人になってチヤホヤされるかもしれないしね。
だけどこれ全部、本当は求めてなかったんだな、ってのが今ならわかるのです。
私はたった一人の恋人が心底溺愛してくれれば幸せだし、
逆に言うと、そういう人がいるならば、他の男性は煩わしいだけだし、
お金は、私がしたいことをしたいようにするためくらいあれば十分なんだな、と。
そして何かに長けていることは、人に認めてほしいという自分の気持ちだったなと。
要するに、
私は私を好きになりたいから、全ての願望が叶ってほしかったのですね。
モテて、有名になれたら、自分を好きになれる気がするからですね。
で、それに気づいたから、やめた・・・というのじゃなくて、
認識の変更を経て、
そもそも何かを強く願うことがなくなっていったの。
なんか、全部穏やかな気持ちで『どーでもいいや』ってのがほんとのところで。
願うことがなくなっていって、
強く握りしめていた手綱をゆっくり手放していったら、
あんなに必要と思っていたものが、実は必要なかった、と気づいた感じ。
「私サイズの願望実現」は、
叶うもののレベルを下げた、というわけではなくて、
全てがすっぽり、そしてしっくり自分に馴染む形で叶っているのを感じて、
心地がよくて、無理がなくて、そして幸福感が高い、ということです。
きっと昔の自分なら、『こんなもので満足!?妥協だろ!?』って思う気がする。
だけど、違うんだ。
そういうのじゃなくて、諦めたのでもなくて、
そもそも願いの方向がズレていたなぁ、って穏やかに納得している感じ。
元祖1さんがずっと言ってた、
何を願うのかも潜在意識に丸投げする。
自分にとって本当にいい事は、潜在意識が1番よく分かっている。
顕在意識にはそれが分からない。
…っていうの。今、まさに実感している。
今は願望実現のサイズが小さいかもしれないけど、
方向がやっと整って、
ここからどんどん幸福が増幅する方向に走りだすのかな、という風に思う。
飛行機に例えると、やっと滑走路に着いたところ。
さぁ、今から離陸するよ! って感じかなぁ。
でもね、そうであっても、そうでなくても、別にいいかな、って思う。
それくらいゆるくて、必死さがなくて、のんびりしている。
で、冒頭のつぶやき。
『何も考えない、何も考えない、何も考えない・・・』
元祖1式ですね、このアファは。
でも、すごいのです。
前は『何も考えない!何も考えない!何も考えない!!!!!(必死)』
だったのが、
今はまさに呟いているだけ。
そして、そうするだけで、本当に、なーんも考えてない。
このニュアンス、伝わるかな?
以前は思考を打ち消すのに、それはもう必死で、考えない!ってやってたのに、
今は、何も考えることがないから呟いてる・・・くらいのテンション。
ただの口癖です、くらい自然。
そして、最近はもう、何も考えてないのがラクで幸せだから、
良いことがあったり、嬉しいことがあったりしても、
『何も考えない、何も考えない、何も考えない・・・』です。
気分が高揚すること自体も、今はいらないかな、って感じで。
最近はその、気持ちが跳ね上がることを抑えるためにアファしてる感じです。
気持ちがフラットなのが気持ちいいの。
気持ちがフラットなのが楽しいの。
だから、イメージ的には
『なーんも考えない♡ なーんも考えない♡ なーんも考えないで大丈夫♡』
こんなテンションです。
恋人から熱烈なアプローチがあっても、このテンションです。笑
全ては上手くいくと信じているし、
逆に、別に全てが上手くいかなくてもいいや、とも思ってる。
でもその「別にいいや」って思えること自体が、
きっと上手くいくだろう、と信頼できている証拠のように思います。
また、私は今、自分のことが大好きです。
好き!と言い聞かせる必要がなくなって、
もう好きなのが当然、ベースに在る感じです。
エゴの自分責めも随分収まって、とてもラクです。
自分は最高!とか高揚する感じではないけど、自分はこの顔この体、この能力で良い!という承認って感じです。
とにかく、日々が本当にラクで楽しいと感じます。
さて、長くなりましたが、今の状況はこんな感じです。
今はかなり純粋に元祖1式ができているように思います。
また何か変化があったら記録していきたいと思います。
〘 元祖1式 〙115-126日目 認識の変更が起きた
久しぶりにブログを書きます。
色々あったよー。
そして、
とうとう認識の変更に至りました。
ここ数日、ブログを書こうと思っていたんだけど、書けず。
やっと認識が変更したと確信が持てたので、書くに至ります。
とにかく、自分に何が起こったのか書いておこうと思う。
桑田さんのまとめを、なんでか急に読み返す気になって、
でも何度も何度も読んでいるものだから、
さささーっと流し読む感じだった。
そしたら、急に、ある文章に目が留まり、心が留まった。
世界は、自分の内面で創ったそれが、そっくりそのまま投影されていただけだったのです。自分こそが、それだったのです。
本来は、最初から、在るのです。
何故なら、在ると感じているものしか、自分が創造している世界には現れないからです。
この文章を読んで、
急に、世界=自分ってことが、腑に落ちたの。
なにこれ。
だとしたら、世界(現実)に現れた時点で、願望実現は完了してるやん。
「それを持ってない(所有してない)」って思うのはおかしいやん。
これが完全にエゴが瞬時に作った誤認やん。
どういうことかって、
みんなの知っている願望実現のセオリーとして、
自分の内側 → 現実に反映
願望を持つ → 自分の内側で創る → 現実に反映
ってのがあると思うんだけど、
これじゃ不完全だった、ってわかったのです。
だって、現実に反映されてる映像を見て、あれ欲しい…と願望を持つんだよね?
あれ?上の図式がおかしな事になるよね?
もう現実化されているものを欲しがるって…?
今、自分の周りにある現実=世界は、
もうそのまんま、まるのまんま、寸分たがわず、全部余すとこなく、
現実世界の全てがそのまんま、自分の内側そのままの現れなわけです。
現実世界の全てがそのまんま、自分の頭の中がそのまんま現れているわけです。
だったら、願望 → 叶う(現実に反映)どころの騒ぎじゃないの。
恥ずかしいことに、(と私は思った笑)
私の頭の中が、そのまんま全て現実に、もう既に現れているわけです。
なんかしらんけど元々あった現実の中に、願望したものだけが、ポンッと現れるわけじゃないの。
この「なんかしらんけど」の現実は、私の頭の中とイコールなの。
だから、一部の願ったものだけが現れるんじゃないの。
願望を持ったものも、そうでないもの(無意識のもの)も、
全てが既に現実に現れてるの。
というか、自分の内側に無いものは現れないの。
世界が100%自分の内側の要素だけで作られてるの。
私の頭の中 = 現実世界
これが大前提なの。
だから、たった今ある現実、これがもうすでに内側で創造したものそのものなわけです。
目の前の現実が、
まんま自分の内側の投影ならば、
世界にある全ては元々自分のもだった
頭の中で創ったものだったってことになる
え? なに?
私、もう私のものであるものを欲しがっていたの?
おかしいよね?
もう元々自分の内側にあるものなのに。(だから現実に現れてるんだから)
なんで欲しがってるんだ?
あぁ、ほんとに世界=私、だ。
だって私の頭の中が世界にまんま投影されているから。
世界は、私以外の何者でもない。
私、世界には私の望んだものだけを反映させたいと思ってた。
だけど、違うの。
世界を見渡してみると、
戦争も、強姦も、強盗も、意地悪も、貧困も、惨めも、ある。
そして、平和も、幸福も、裕福も、富も、慈悲も、楽しいも、安心も、ある。
私の中には、そのどれも両方とも、確かに、あったの。
世界には、望んでいるものだけが反映されるのではない。
私の中にあるもの、もっているものが、そのまま正直に反映されてるの。全部。
やりたくない今の仕事が嫌だったの。
いけすかない人も、嫌だったの。
お金のない生活も、嫌だったの。
こんなの望んでない!!!
そう思っていたの。
だけど、違うの。
これらも全部、私の中にあったものだったの。
世界はきれいに、自分の中にあるものしか現わさない。
だから、認めたの。
あぁ、これ全部、自分が望んでいたもの(内側で持っているもの)なんだなぁ。
そうしたら、すごくない?
私、願望実現100%しているんだよ、既に。
で、もう一つ思ったのが、
世界に現れてる、全てが自分ってことだわ。
どこかで行われている海外ウエディングも、
誰かがやった結婚も、
誰かが得た大金も、
現実にそういう人がいるのだから、
私の内側に元々あったってこと。
それらのものも全部、元々私のものってことだ。
自分の内側 → 願望実現(現実化)ってことからいくと、
元々内側にあるんだから、現象化したってことだ。
私の内側にちゃんとあるってことは、
私はもう結婚しているし、
私はもう大金を得ている。
既に手に入れているものを手に入れようとするなんて、おかしいよな。変だよ。
現象化されているのだから、
なんとか現象化できるように、自分の内側を変えようと頑張るのも、なんか変。
既にかなっていることについての、願望を持つこともなんか変。
そうやって気づいたとき、
あぁ、よかった!
全部あったわ!
全部、もう既に持ってた!
なんて安心なんだろう!
って思った。
自分の気に入らない現実の部分も、
自分が元々持っていたものの現れなだけ、
と思うと、なんかこう・・・愛おしい気がした。
だって現実の全て、私なんだもん。
この認識に辿り着いたとき、
現実を変えようと、現実にチャチャを入れる意味が分からなくなった。
私の中に既にあるものが叶ってるだけだ。
って。
そしたら、変えたい現実があるとき、
現実を変える必要はなくて、
『あぁ、今は〇〇なことを考えているんだな。』
『あぁ、今は、世界には〇〇な人が居る、って信じているんだな』
と感じて、
現実に対処するんじゃなく、
○○なことを考えないようにしよう!
・・・ではなく、
シンプルに『別の○○と思おう』、になった。
具体例を出すと、
今は『仕事はしんどいものだし、嫌な奴は何処にでもいる』と思っているんだな。
だから、仕事がしんどくて、意地悪してくる人がいる現実になってるんだな。
だったら、『仕事はしんどくない!嫌な奴などいない!』じゃなくて、
『仕事はラクで楽しくて、人間関係は楽しくてたまらないもの』ってことにしよう。
そういう世界を選ぼう。
こんな風になった。
要は、嫌な現実を否定して打ち消すんじゃなく、
そうじゃない楽しい世界を選ぶ、って感じ。
私の世界のどこかには、条件のいい仕事も、ラクで楽しい仕事も、全部あるわ。
私の世界に現れているんだから、私の内側に全部ある。
あとはそれを選ぶだけ。
もう手に入れているから欲しがらなくていいんだ。
メロメロベタ惚れに溺愛されている人も、もういたわ。
だったら私の内側に既にあるってことだ。
じゃあ、何もしなくてもいいや。
なーんだ。
私にできるのは、
この私にとって完璧に創られた世界を、
愛して、愛でてるだけでよかったんだ。
なんて素敵で幸せなんだろう。
説明が本当に難しい。
だけど、私はこの認識に辿り着いた。
本当に、世界がひっくり返ったみたい。
そして、現実化にタイムラグも、本当はない、ってことも分かった。
私が認識の変更をして、
私の望む世界をチョイスしたら、
現実の、あの嫌でしんどくて辛かった仕事が、
あっという間にラクで、楽しくて、自分の手に負える仕事に変化した。
これは内面で、じゃないよ。
現実に、なんでか知らないけど、仕事があっという間にハッピーなものに変わった。
あのいけ好かなかった彼女とも、あら不思議、日常笑って会話してる。仲良くしてる。
不思議なのは、もう元々そうだったみたいに、ある時から現実がすり替わってる。
信じられないことがたくさん。
そういえば恋人は私のことを「もへじちゃん、本当に大好き!」と言い、
「もう(付き合ってから)半年経つね!」と言ってきた。
彼の中で、別れたことがなかったことになっている。
なんだかわからないけど、上手くいっている。
というか、世界はもうすでに完璧で、
願望実現は瞬時に完了していて、
何も修正する必要のないものだったと分かった。
あんなに苦しめられたエゴの声も、もう出てこない。
出てきたって、的外れの言動だから、すぐわかる。
だって、世界が完璧に実現されているの。
私にできることなんて、なんにもない。
ただ現れてくる世界を、眺めて体験して、味わっているだけだ。